【6】宮崎:神話と太陽が宿る、心解き放つ南国の地
九州の南東部に広がる宮崎県――そこは、まるで神話の一節に迷い込んだかのような、不思議な温かさと優しさに包まれた土地でした。
車窓から見える風景が、徐々に南国の色を帯びてくる頃、私は宮崎駅に降り立ちました。
目に映るのは、どこまでも続く青空と、陽射しをたっぷりと受けたフェニックスの並木。
その風景は、ほんのりとした甘さを感じさせるような、穏やかな香りに満ちていました。
まず向かったのは、「青島神社」。
太平洋に浮かぶ小さな島に佇むこの神社は、縁結びのご利益があるとして有名ですが、それ以上に心を奪われたのは、周囲の自然との一体感でした。
干潮時には海に現れる「鬼の洗濯板」と呼ばれる波状岩の上を歩き、朱塗りの鳥居をくぐると、潮風に乗ってどこか懐かしいような香りが鼻をかすめます。
波音と鳥のさえずりが重なり、まるで神話の時代に時間が巻き戻されたような感覚になりました。
青島神社の境内は、亜熱帯植物が生い茂り、神域という言葉がぴったりの神秘的な空気に満ちていました。
木漏れ日のなかで手を合わせると、何か大きな存在に抱かれているような安心感が広がります。
この神社に祀られているのは、山幸彦と海神の娘・豊玉姫。
日本の神話「海幸山幸」の舞台でもあり、神話に生きる土地であることを実感しました。

次に足を伸ばしたのは「日南海岸」。
この道は「日南フェニックスロード」とも呼ばれ、ドライブするにはまさに絶景の連続でした。
左手には太平洋がどこまでも広がり、右手には緑深い山々が連なっています。
途中に立ち寄った「堀切峠」では、視界いっぱいに広がる海の青に、思わず言葉を失いました。
車を降りて深呼吸をすれば、潮の香りと山の香りが混ざり合い、五感すべてが「南国」に包まれていくような感覚に。
旅の中で、こうした“何もしない時間”こそが、最も贅沢なのかもしれない――そんなことを思わせてくれる風景でした。

宮崎といえば、忘れてはならないのが「鵜戸神宮」。
海岸の断崖に建てられた朱塗りの社殿は、岩窟の中に神殿があるという全国でも珍しい構造をしています。
階段を下り、波しぶきの音が近づくにつれ、心が少しずつ研ぎ澄まされていくのを感じました。
岩屋の中で手を合わせ、海に浮かぶ「運玉」投げにも挑戦。
願いを込めて小さな玉を海中の岩の窪みに投げ入れる――それはまるで、未来へ小さな希望を託すような、静かな儀式のようでした。
そしてもうひとつ、この地で強く印象に残ったのが、人々の温かさでした。
商店街の小さなカフェで声をかけてくれたご夫婦、青島の土産屋で「ゆっくり見てってね」と笑顔をくれたおばちゃん。
どこに行っても、言葉の端々にやさしさが滲んでいて、旅人である私の心をそっと包んでくれました。
夜は、地元の郷土料理を味わいに「宮崎地鶏」の店へ。
炭火で豪快に焼かれた鶏肉は、香ばしさとともに噛むたびに旨味が広がり、自然と笑顔がこぼれます。
「チキン南蛮」も外せない一品。
タルタルソースがたっぷりとかかった甘酢の香り高い一皿は、家庭的でありながらも、どこか宮崎らしい懐の深さを感じさせてくれる味でした。
地酒とともにゆっくり味わっていると、旅の疲れもすっとほどけていくようでした。
旅の終わりには、再び青島を訪れました。
夕暮れ時、水平線に沈む太陽が海面を金色に染め上げ、波間に揺れる光がまるで祝福のように感じられました。
そのときふと、旅のはじまりに聞いた“神話の風”という言葉が胸に浮かびました。
宮崎の風景は、確かに何か神聖なものと通じ合っている――そんな気がしたのです。
宮崎。
それはただの「南国リゾート」ではなく、神話と人々の暮らしが、静かに、そしてしなやかに共存している場所でした。
どこまでも続く海と空の青、その狭間で育まれてきた土地の記憶。
そのすべてが、この旅の中で、心に確かに刻まれていきました。
この地を離れるとき、私はひとつの確信を抱いていました。
「またきっと戻ってくる」――その思いは、青く澄んだ海風にそっと乗せて、宮崎の空へと還していきました。
【7】鹿児島:火の山に抱かれて、時を超える旅へ
宮崎の神話の風に見送られ、南へと車を走らせると、やがて遠くに姿を現すのが鹿児島の象徴、桜島のシルエット。
もくもくと煙をあげるその姿は、まるで眠らぬ巨人のように、静かに、しかし確かにこの地の時間を見守っているかのようでした。
鹿児島に足を踏み入れたとき、私の胸にはふと、「歴史」と「自然」が一体となって息づく、そんな土地に来たのだという実感が湧き上がってきました。
鹿児島市内に着いたのは午後の光が傾きはじめる頃。
まず訪れたのは、「城山公園」。
ここは西郷隆盛終焉の地でもあり、彼の銅像が静かに街を見下ろしています。
展望台から見渡す鹿児島湾と桜島は、まさに絶景。
水平線の彼方まで続く青と、対岸に立つ火山の黒が、美しいコントラストを描き出していました。
風が頬を撫で、過去と現在をつなぐような感覚に包まれる。
歴史の渦中にいた西郷さんも、ここから同じ景色を見ていたのかもしれない――そう思うと、不思議と彼の背中が近くに感じられました。

市内を歩いていると、「薩摩の気骨」という言葉があちらこちらで響いてくるようです。
実際、維新ふるさと館や鹿児島市立博物館では、幕末から明治にかけてこの地がどれほど日本の転換期に影響を与えたかを、リアルな映像や展示で体感できます。
西郷隆盛や大久保利通らが命を賭けて挑んだ時代の息吹が、鹿児島の町の至るところに脈打っていました。
そして、やはり鹿児島の旅で欠かせないのは、桜島そのものへの訪問です。
フェリーでわずか15分の距離ながら、着いた先はまるで別世界。
火山灰が積もる黒い大地、力強く育つ植物たち、そしてどこか神聖な気配をまとった空気――自然と向き合うとは、こういうことかと教えられるようでした。
「湯之平展望所」から見た桜島の噴煙は、言葉では言い表せない迫力がありました。
地の底からわき上がるようなエネルギーが、今なおこの島を形づくっている。
その“生きている大地”の上に自分が立っているのだという実感は、旅人にとってこの上ない贅沢です。
ふと足元に目をやれば、道端に置かれた火山灰を避けるための簡易ほうきや看板の文字に、住民たちのたくましさと、自然との共存の知恵がにじんでいます。

桜島から戻る頃には、日も傾き、温泉の看板が次々と灯りはじめました。
鹿児島は温泉王国でもあります。
今回は市内から少し離れた指宿(いぶすき)へ向かうことに。
道中、車窓から見えるのは、緩やかに続く山並みと田園風景、そしてどこまでも伸びる海岸線。
指宿に着くと、まず出迎えてくれるのは、あの名物「砂むし温泉」。
浴衣を着て波打ち際の砂に横たわり、熱々の砂をスタッフが身体に丁寧にかけてくれる。
じわじわと身体の芯まで温まっていくその感覚は、まさに「地球の恵みそのもの」に包まれているようでした。
波音をBGMに、目を閉じれば、心の疲れまでゆっくりと溶けていくような、そんな癒しの時間でした。
夕食は、指宿の宿でいただいた黒豚しゃぶしゃぶ。
甘みのある脂身と、さっぱりとした味わいが絶妙で、一口ごとに思わずうなるほどの美味しさ。
地元の野菜も瑞々しく、温泉でゆるんだ体にやさしく染みわたっていきます。食後には焼酎を一杯。
芋の香りがほのかに広がり、鹿児島の夜にぴったりの締めくくりでした。
旅の最後には、知覧(ちらん)へも足を伸ばしました。
ここには、「知覧特攻平和会館」があります。
重いテーマではありますが、どうしても訪れておきたい場所でした。
展示されている手紙や遺品、遺影の一枚一枚に触れるたびに、胸が締めつけられました。
ただ「若さ」や「勇気」といった言葉では片づけられない、彼ら一人ひとりの人生が、確かにここに存在していたのだということ。
その重みを胸に、外に出ると、知覧武家屋敷の静かな町並みが、そっと心を落ち着かせてくれるようでした。
鹿児島――そこには、火の山に見守られながら、過去と現在をつなぎ、未来へと歩み続ける人々の暮らしがありました。
自然の脅威も、歴史の痛みも、すべてを抱きしめてなお、人は生きる。
その姿に、私は静かに感動を覚えました。
この土地を離れる日、桜島がその火口からふわりと煙をあげていました。
まるで「またおいで」と言ってくれているように。
私は静かにうなずきながら、再び九州の旅路をたどることを、心に決めたのでした。
【おわりに】
――七つの風景を心にしまって、再び日常へと帰る朝。旅の終わりは、いつも少しだけ切なく、そしてあたたかい。
九州をめぐるこの旅が始まったのは、ふとした言葉がきっかけでした。
「九州って、一言で言えないほど表情が違うよね」。
その言葉通り、実際に歩いてみると、この地には七つの県、七つの文化、七つの人々、そして七つ以上の物語が息づいていました。
博多の喧騒と屋台の灯り、佐賀平野に揺れる麦の穂、長崎の丘に咲く異国の記憶、熊本城の石垣に宿る時代の重み。
大分の山間に湯けむりが立ち上る朝、宮崎の海辺で風にたなびく椰子の葉、鹿児島の桜島が静かに見守る町並み――そのすべてが、それぞれの「九州」を持っていたのです。
私が旅に出る理由は、いつも同じではありません。
何かから逃げたくて出ることもあれば、何かに出会いたくて出ることもある。
でも今回の旅は、言うならば「確かめに来た」のかもしれません。
かつて訪れた地がどんな風に変わっているのか、変わらずにいてくれるものがあるのか。
そして何より、自分自身がどう変わってこの風景を見るのか。
旅というものは、風景そのものよりも、そこに自分の目がどう映るかによって、その意味が変わっていくものだと思います。
同じ桜を見ても、春を喜べる時と、涙をこらえるように眺める時がある。
同じ海辺の夕焼けを見ても、誰かのことを想いながら見るときと、ただ静かに孤独を受け止めるときがある。
だからこそ、旅は「今」の自分を映し出す鏡でもあるのです。
九州という大地は、その鏡として、あまりにも豊かで、あまりにも深かった。
都会のように騒がしくもあれば、山奥の静寂もある。
人の手で整えられた景観もあれば、何千年も変わらぬ自然もある。
にぎわいと静けさ、その両極を持ちながらも、どちらも否定することなく受け入れている。
それはまるで、人間の心そのもののようでした。
喜びも悲しみも、強さも弱さも、全部を抱えながら生きている。
それを肯定してくれる土地――それが、九州だったように思います。
そして、出会った人々の笑顔。
旅先で出会った老夫婦、偶然入った喫茶店のマスター、宿で話しかけてくれた子どもたち。
観光地のガイドブックには載っていない、ささやかな会話ややさしさが、この旅を豊かにしてくれました。
九州の人たちは、とても静かに、そしてとても自然に「ようこそ」と言ってくれます。
その言葉に含まれるぬくもりが、旅人の心をふんわりと包み込んでくれるのです。
それに、旅の終わりは、必ずしも別れではないのだということも、この旅が教えてくれました。
たとえその場を離れても、心に残った風景や人の言葉は、ずっと胸の奥に生き続けます。
季節が変わっても、年を重ねても、ふとした瞬間に、あの町の風の匂いや、あの川のせせらぎが、思い出の中からそっと顔を出してくれる。
そうして、旅は終わるのではなく、続いていくのです。
この旅の記録を書きながら、私は何度も、あの朝霧の中に立ちすくんだ渓谷や、しんとした神社の境内に戻っていきました。
時間を旅するように、言葉で風景をたどる。
読み返すたびに、また新しい感情が湧いてくる。
そんな旅が、九州という場所にはありました。
もし、これを読んでくださったあなたが、ほんの少しでも「旅に出たい」と思ってくれたなら、それはきっと、あなたの中の“旅の種”が静かに芽吹いた証なのだと思います。
行き先がどこであれ、大切なのは、自分の心が動いたというその一点です。
旅に出るのに、特別な理由はいりません。
日常から一歩だけ外に出て、五感を研ぎ澄ませれば、もうそれだけで十分に旅は始まっています。
そしてもし、どこへ行こうか迷ったなら、私は自信を持って「九州」をおすすめします。
七つの表情を持つこの地は、きっとあなたの“今”に寄り添い、優しく迎えてくれることでしょう。
九州の空の色、川の音、温泉の湯気、祭りの熱気、風に揺れる田んぼの緑、漁港に並ぶ魚たちのきらめき、そして、人々のまなざし。
それらすべてが、旅人の心に小さな灯をともしてくれる、そんな不思議な力を持っていました。
ありがとう、九州。
きっとまた、戻ってきます。
いや、戻らずにはいられない。
だって、ここにはまだ、私の知らない「あなた」がたくさん待っているのだから。
さあ、旅は続きます。
にぎわいも、静けさも――すべてを包み込む九州という地へ、またいつか。
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