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  • 風と海の記憶をたどって――沖縄、碧の島を歩く旅

    【はじめに】

    那覇空港に降り立った瞬間、空の色が違って見えました。

    雲の合間から顔をのぞかせる陽光は、どこか柔らかく、でも確かに力強い。

    頬をなでる風は、潮の匂いをふくみながら、遠い海の記憶を届けてくれるようでした。

    沖縄――この言葉の響きには、いつも少しだけ郷愁が混じります。

    初めて訪れるはずなのに、なぜか懐かしく、どこかで会ったことがあるような気がする。

    そんな不思議な感覚を胸に、私は今回の旅をはじめました。

    本州の喧騒から少し距離を置いて、自然の中に身をゆだねる時間。

    真っ白な砂浜と、限りなく透明な海。赤瓦の屋根が連なる古い町並み。

    そして、時を超えて語り継がれてきた島の記憶。

    沖縄は、そのすべてをやさしく包み込むように、旅人に語りかけてきます。

    この旅では、那覇から南部、そして中部・北部・離島へと足を延ばし、それぞれの土地が持つ表情に、ゆっくりと触れていきました。

    喧騒の中にある静けさ、笑い声の奥にある祈り――沖縄という島の奥行きを、少しでも感じていただけたら幸いです。


    【1】那覇から南部へ:歴史と祈りの風景を歩く

    那覇市の国際通りは、にぎやかで、どこかエネルギーに満ちた場所。

    観光客が行き交い、屋台からは沖縄そばの香り、雑貨店の前には琉球ガラスの鮮やかなきらめき。

    ここは、旅の始まりにふさわしい“玄関口”です。

    一歩路地に入れば、首里の町並みが静かに広がります。

    かつての琉球王国の中心地「首里城」は、2019年の火災で多くを失いながらも、今もなお、多くの人々の記憶と祈りをつなぎとめている場所です。

    再建中の現地を訪れたとき、赤瓦の向こうに広がる那覇の町を見下ろしながら、どこか神聖なものに触れたような気持ちになりました。

    そして、南へと車を走らせると、風景は一変します。

    海が近くなり、空はどこまでも広く、空気に混じる塩の匂いが濃くなってくるのです。

    沖縄戦の記憶が刻まれた「ひめゆりの塔」や「平和祈念公園」。

    ここでは観光という言葉がそぐわないほどに、静かで、重たい空気が流れていました。

    ひとつひとつの名前が刻まれた石碑に手を合わせ、目を閉じると、遠いはずの歴史が急に自分のすぐそばにやってくる感覚に襲われました。

    でも、その静けさの中にも、確かに希望があるのです。

    公園を歩いていると、地元の小学生が修学旅行で訪れていて、真剣に資料に目を通している姿がありました。

    語り継ぐということ、忘れないということ、それはこの島が何よりも大切にしている営みなのかもしれません。

    そして南部の旅の締めくくりには、知念岬へ。

    ここは、風が抜ける岬の上から、エメラルドグリーンの海を一望できる絶景の地。

    眼下には久高島が静かに浮かび、海と空の境目がゆるやかに溶け合っていました。

    あのとき感じたのは、言葉ではうまく言い表せない、ただただ“祈るような気持ち”だったのです。


    【2】中部:文化と暮らしの交差点、読谷・北谷・うるまを巡る

    沖縄の中部――そこには、観光地としてのにぎわいと、地元の暮らしの息づかいが心地よく混ざり合った、絶妙な“ちょうどよさ”がありました。

    那覇から車で北へ約1時間。

    まず訪れたのは読谷村(よみたんそん)。

    ここは観光ガイドに派手には載っていないけれど、旅人の心をふっと解きほぐしてくれる、そんな場所です。

    最初に立ち寄ったのは、静かな丘の上に佇む「座喜味城跡(ざきみじょうあと)」。

    かつて琉球王国を守った城壁が、今もなお美しい曲線を描いて空にのびていました。

    城跡に立ち、風に吹かれていると、不思議と過去と現在の境界線があいまいになります。

    この石を積んだ人は、どんな空を見ていたのだろう。

    そんな想像が、旅の時間をより深く、豊かなものにしてくれるのです。

    読谷といえば、やちむん(沖縄の焼き物)の里としても知られています。

    赤瓦の工房が点在する「やちむんの里」では、土の匂いと、ろくろの回る音が静かに流れていました。

    職人さんの手のひらから生まれる器たちは、どれもぽってりとあたたかく、ひとつひとつ表情が違う。

    それはまるで、沖縄そのもののように思えました。

    そこから車を走らせ、北谷(ちゃたん)の美浜アメリカンビレッジへ。

    ここは一転して、ポップでカラフル、どこか異国の香りが漂う街並みが広がっています。

    海辺の遊歩道を歩けば、夕暮れどきの空がだんだんとオレンジから群青へと色を変え、遠くに広がる東シナ海が静かにきらめいていました。

    ふと立ち寄ったカフェで飲んだ、パッションフルーツのソーダ。

    キリリとした酸味と甘さが混じり合い、湿った空気の中で喉をスーッと抜けていきました。

    店主は移住してきたという東京出身の男性。

    「沖縄の人の時間の流れ方が好きなんです」と笑っていました。

    そう、その言葉には、私自身も頷かずにはいられませんでした。

    そして、うるま市へ。

    ここには、なんとも不思議な“海中道路”という風景があります。

    まるで海の上を車で走っているかのような、真っ直ぐな道。

    両側には透き通った青が広がり、風が車体を軽く揺らしながら吹き抜けていきます。

    この道の先にあるのは、浜比嘉島、伊計島、宮城島など、小さな離島たち。

    どの島にも、それぞれの暮らしがあり、静かで、やさしい時間が流れています。

    浜比嘉島では、古民家の軒先でゆんたく(沖縄方言でおしゃべり)をしていたおばあちゃんたちが、「今日は風が強いねぇ」と笑いながら手を振ってくれました。

    その一言が、なぜか胸に沁みました。

    言葉の意味よりも、そのまなざしや声のトーンの中に、あたたかい“受け入れ”のようなものが確かにあったのです。

    こうして中部を巡る旅は、にぎやかさと静けさのあいだをゆらゆらと揺れながら、心の奥にゆっくりと沁み込んでいきました。

    風景だけでなく、出会った人々の声や、道端に咲く花の色、夕焼けの匂いまでもが、旅の記憶として残っていくのを感じました。


    【3】北部:やんばるの森と、海の青に抱かれて

    沖縄本島の北部に広がる“やんばる(山原)”――それは、まるで島の“深呼吸”のような場所でした。

    読谷からさらに車を北へと進め、名護の市街地を越えたあたりから、風景は徐々に“人の気配”から“自然の息吹”へと変わっていきます。

    道はくねくねと曲がり、左右には深い緑。

    目に入るものすべてがしっとりとした湿度を含み、森の中からは鳥のさえずりと虫の音、時おり木の実が落ちる音が混ざり合って響いてきます。

    まず訪れたのは、国頭村(くにがみそん)にある「やんばる国立公園」。

    広大な山の中に点在するトレッキングルートを歩きながら、私はふと立ち止まり、耳を澄ませました。

    風が木々を揺らし、その隙間から日差しがこぼれ落ちてくる瞬間――その何気ない一瞬に、心がじんわりとあたたかくなるのです。

    やんばるには、世界自然遺産にも登録された貴重な動植物が多く棲んでいます。

    運がよければ、「ヤンバルクイナ」や「ノグチゲラ」といった固有種に出会えるかもしれません。

    私は双眼鏡を手に歩いていましたが、姿を現してくれたのは、森の奥でピョンと跳ねるリュウキュウアカガエル。

    それでも、何だか大きな宝物を見つけたような気持ちになりました。

    次に向かったのは、東村にある「慶佐次(げさし)のマングローブ林」。

    カヤックに乗って、水の上をゆっくりと滑るように進むと、マングローブの根が絡まり合う複雑な造形が目の前に広がります。

    パドルを止めると、そこには静寂だけがありました。

    耳を澄ませば、水面に魚が跳ねる音、どこかで鳥が羽ばたく音、そして自分の呼吸だけがゆっくりと重なっていく――自然と一体になるような、贅沢な時間でした。

    やんばるの旅は、ただ自然を見るだけの旅ではありません。

    その自然の中で、“自分”という存在と静かに向き合う旅でもありました。

    夕暮れ時、私は本部町(もとぶちょう)にある「備瀬(びせ)のフクギ並木」へと向かいました。

    ここは、まるで時が止まったかのような静かな集落。

    フクギ(福木)という樹木が防風林として整然と植えられ、その間を縫うように石畳の小径が続いています。

    レンタサイクルを借りてその並木道を進めば、木漏れ日が肩を優しく撫でてくれるような、不思議な安心感に包まれます。

    近くの民家では、猫がひなたで丸くなり、縁側にはのんびりと三線の音色が流れていました。

    観光地というより、そこは“誰かの暮らし”の風景。

    その静けさに触れた時、「旅は特別なものだけじゃない」ということを、しみじみと思い出させてくれた気がします。

    そして、旅の締めくくりとして選んだのは、「古宇利島(こうりじま)」。

    本島と橋でつながったこの小さな島は、恋の島としても知られています。

    全長約2kmの古宇利大橋を渡ると、目の前に広がるのは、夢のようなエメラルドグリーンの海。

    まるで絵画のような景色に、何度も「本当にここは日本なのだろうか」と、心の中でつぶやいてしまいました。

    海岸を歩き、波打ち際に腰をおろして空を見上げた時、やんばるでの旅の記憶が、まるでやさしい波のように胸に押し寄せてきました。

    沖縄の北部――そこは、自然の美しさと、人の暮らしが調和した、心の奥深くに届く場所だったのです。


    【4】離島編:青い海の彼方へ

    沖縄本島の北部を満喫した後、次に向かうのは、沖縄の海を代表する美しい離島たちです。

    那覇の賑やかな街を後にし、飛行機で石垣島へ。

    南国の風が迎えてくれると、心が自然と解きほぐされていくような気がしました。

    沖縄本島とはまた違う空気、そして、離島ならではの“ゆっくり”とした時間が流れる場所です。

    最初に訪れたのは、石垣島。

    空港を降りると、そこには目の前に広がる青い空と海が、心を引き込んでやまない。

    石垣島は、その美しい海と白い砂浜で有名で、特に「川平湾(かわびらわん)」はその象徴的な風景として有名です。

    川平湾の透明度の高い海を前に、私は思わず息を呑みました。

    遠くの島々が水面に映るさまは、まるで絵画のようで、しばらくその場でただ見入ってしまったほどです。

    川平湾では、グラスボートに乗って海底の世界を覗いてみました。

    海中には、色とりどりの熱帯魚たちが泳ぎ回り、サンゴが生き生きと息づいています。

    こんなにも澄んだ海は、他のどこにもないのではないかと感じました。

    午後には、島の南部へと足を延ばし、あえて観光地として名の知られた場所から離れたところへ。

    石垣島には、まるで秘境のように静かな場所がいくつもあります。

    たとえば「玉取崎(たまどりざき)」という小さな岬から見える景色は、地元の人たちにとっても特別な場所だとか。

    ここからは石垣島の大自然と、島々が織り成す美しい風景を一望できます。

    次に訪れたのは、石垣島からさらに南に位置する宮古島です。

    飛行機を降りると、石垣島とはまた違った風景が広がっています。

    宮古島は、その名の通り“島”という言葉そのもののような場所で、どこまでも続く海と白い砂浜が心を解き放ってくれます。

    特に有名なのは、「与那覇前浜(よなはまえはま)」。

    広大なビーチに足を踏み入れると、透明な海と空がまるで一体化しているかのような感覚に包まれます。

    宮古島の海は、色が何層にも重なり合い、そのグラデーションの美しさに言葉を失ってしまうほどです。

    与那覇前浜でしばらく海を見つめていると、次第に心が洗われていくのを感じました。

    また、宮古島には「東平安名岬(あがりへんなみさき)」という、自然の美しさと静けさを体感できる場所もあります。

    ここからは、宮古島の海岸線とその先に浮かぶ小さな島々を見渡すことができ、息を呑むほどの壮大な景色が広がっています。

    風に揺れる草の音、波の音。

    普段の忙しさを忘れて、ただその瞬間に身を任せることができる場所でした。

    宮古島から船でわずか10分ほどで渡れる竹富島。

    ここは、沖縄の古き良き風景が色濃く残る場所です。

    竹富島に着いた瞬間、そこはまるで時が止まったかのように感じられました。

    島内は車の通行が制限されており、代わりにレンタルサイクルや、古き沖縄の赤瓦屋根が並ぶ小道を歩きながら、島を散策します。

    島の中心には、まるで絵葉書のような風景が広がっています。

    赤瓦の民家、白い砂の道、そしてその先に広がる海と空。

    このシンプルな風景こそが、竹富島の魅力であり、何度訪れても心が穏やかに満たされる場所です。

    歩いていると、ふと島の人々と目が合い、穏やかな笑顔を交わすことができるのも、この島ならではの暖かさです。

    竹富島では、星空もまた特別です。

    夜になると、空一面に広がる星々がそのまま島を包み込むかのような美しい景色が現れます。

    星の輝きが、島の静けさをさらに引き立ててくれるのです。


    【5】沖縄の離島の美しさに浸る

    沖縄本島から、さらに南の離島にまで足を運ぶことができたこの旅。

    そこには、どこか懐かしさを感じさせる風景と、地元の人々の温かいおもてなしがありました。

    沖縄の離島は、それぞれが異なる魅力を持ちながらも、共通して“ゆっくり”とした時間が流れています。

    都会の喧騒から離れて、ただ自然と向き合い、人々と触れ合い、心をリセットすることができる場所――それが、沖縄の離島の最大の魅力です。

    これからも、沖縄の風景や文化、人々とのふれあいを通じて、心に残る旅を続けていきたいと思います。

    次回は、沖縄の食と音楽、そして平和への祈りに触れる旅へと続きます。

  • にぎわいも、静けさも。〜九州、七つの風景を巡る旅〜③

    【6】宮崎:神話と太陽が宿る、心解き放つ南国の地

    九州の南東部に広がる宮崎県――そこは、まるで神話の一節に迷い込んだかのような、不思議な温かさと優しさに包まれた土地でした。

    車窓から見える風景が、徐々に南国の色を帯びてくる頃、私は宮崎駅に降り立ちました。

    目に映るのは、どこまでも続く青空と、陽射しをたっぷりと受けたフェニックスの並木。

    その風景は、ほんのりとした甘さを感じさせるような、穏やかな香りに満ちていました。

    まず向かったのは、「青島神社」。

    太平洋に浮かぶ小さな島に佇むこの神社は、縁結びのご利益があるとして有名ですが、それ以上に心を奪われたのは、周囲の自然との一体感でした。

    干潮時には海に現れる「鬼の洗濯板」と呼ばれる波状岩の上を歩き、朱塗りの鳥居をくぐると、潮風に乗ってどこか懐かしいような香りが鼻をかすめます。

    波音と鳥のさえずりが重なり、まるで神話の時代に時間が巻き戻されたような感覚になりました。

    青島神社の境内は、亜熱帯植物が生い茂り、神域という言葉がぴったりの神秘的な空気に満ちていました。

    木漏れ日のなかで手を合わせると、何か大きな存在に抱かれているような安心感が広がります。

    この神社に祀られているのは、山幸彦と海神の娘・豊玉姫。

    日本の神話「海幸山幸」の舞台でもあり、神話に生きる土地であることを実感しました。

    次に足を伸ばしたのは「日南海岸」。

    この道は「日南フェニックスロード」とも呼ばれ、ドライブするにはまさに絶景の連続でした。

    左手には太平洋がどこまでも広がり、右手には緑深い山々が連なっています。

    途中に立ち寄った「堀切峠」では、視界いっぱいに広がる海の青に、思わず言葉を失いました。

    車を降りて深呼吸をすれば、潮の香りと山の香りが混ざり合い、五感すべてが「南国」に包まれていくような感覚に。

    旅の中で、こうした“何もしない時間”こそが、最も贅沢なのかもしれない――そんなことを思わせてくれる風景でした。

    宮崎といえば、忘れてはならないのが「鵜戸神宮」。

    海岸の断崖に建てられた朱塗りの社殿は、岩窟の中に神殿があるという全国でも珍しい構造をしています。

    階段を下り、波しぶきの音が近づくにつれ、心が少しずつ研ぎ澄まされていくのを感じました。

    岩屋の中で手を合わせ、海に浮かぶ「運玉」投げにも挑戦。

    願いを込めて小さな玉を海中の岩の窪みに投げ入れる――それはまるで、未来へ小さな希望を託すような、静かな儀式のようでした。

    そしてもうひとつ、この地で強く印象に残ったのが、人々の温かさでした。

    商店街の小さなカフェで声をかけてくれたご夫婦、青島の土産屋で「ゆっくり見てってね」と笑顔をくれたおばちゃん。

    どこに行っても、言葉の端々にやさしさが滲んでいて、旅人である私の心をそっと包んでくれました。

    夜は、地元の郷土料理を味わいに「宮崎地鶏」の店へ。

    炭火で豪快に焼かれた鶏肉は、香ばしさとともに噛むたびに旨味が広がり、自然と笑顔がこぼれます。

    「チキン南蛮」も外せない一品。

    タルタルソースがたっぷりとかかった甘酢の香り高い一皿は、家庭的でありながらも、どこか宮崎らしい懐の深さを感じさせてくれる味でした。

    地酒とともにゆっくり味わっていると、旅の疲れもすっとほどけていくようでした。

    旅の終わりには、再び青島を訪れました。

    夕暮れ時、水平線に沈む太陽が海面を金色に染め上げ、波間に揺れる光がまるで祝福のように感じられました。

    そのときふと、旅のはじまりに聞いた“神話の風”という言葉が胸に浮かびました。

    宮崎の風景は、確かに何か神聖なものと通じ合っている――そんな気がしたのです。

    宮崎。

    それはただの「南国リゾート」ではなく、神話と人々の暮らしが、静かに、そしてしなやかに共存している場所でした。

    どこまでも続く海と空の青、その狭間で育まれてきた土地の記憶。

    そのすべてが、この旅の中で、心に確かに刻まれていきました。

    この地を離れるとき、私はひとつの確信を抱いていました。

    「またきっと戻ってくる」――その思いは、青く澄んだ海風にそっと乗せて、宮崎の空へと還していきました。


    【7】鹿児島:火の山に抱かれて、時を超える旅へ

    宮崎の神話の風に見送られ、南へと車を走らせると、やがて遠くに姿を現すのが鹿児島の象徴、桜島のシルエット。

    もくもくと煙をあげるその姿は、まるで眠らぬ巨人のように、静かに、しかし確かにこの地の時間を見守っているかのようでした。

    鹿児島に足を踏み入れたとき、私の胸にはふと、「歴史」と「自然」が一体となって息づく、そんな土地に来たのだという実感が湧き上がってきました。

    鹿児島市内に着いたのは午後の光が傾きはじめる頃。

    まず訪れたのは、「城山公園」。

    ここは西郷隆盛終焉の地でもあり、彼の銅像が静かに街を見下ろしています。

    展望台から見渡す鹿児島湾と桜島は、まさに絶景。

    水平線の彼方まで続く青と、対岸に立つ火山の黒が、美しいコントラストを描き出していました。

    風が頬を撫で、過去と現在をつなぐような感覚に包まれる。

    歴史の渦中にいた西郷さんも、ここから同じ景色を見ていたのかもしれない――そう思うと、不思議と彼の背中が近くに感じられました。

    市内を歩いていると、「薩摩の気骨」という言葉があちらこちらで響いてくるようです。

    実際、維新ふるさと館や鹿児島市立博物館では、幕末から明治にかけてこの地がどれほど日本の転換期に影響を与えたかを、リアルな映像や展示で体感できます。

    西郷隆盛や大久保利通らが命を賭けて挑んだ時代の息吹が、鹿児島の町の至るところに脈打っていました。

    そして、やはり鹿児島の旅で欠かせないのは、桜島そのものへの訪問です。

    フェリーでわずか15分の距離ながら、着いた先はまるで別世界。

    火山灰が積もる黒い大地、力強く育つ植物たち、そしてどこか神聖な気配をまとった空気――自然と向き合うとは、こういうことかと教えられるようでした。

    「湯之平展望所」から見た桜島の噴煙は、言葉では言い表せない迫力がありました。

    地の底からわき上がるようなエネルギーが、今なおこの島を形づくっている。

    その“生きている大地”の上に自分が立っているのだという実感は、旅人にとってこの上ない贅沢です。

    ふと足元に目をやれば、道端に置かれた火山灰を避けるための簡易ほうきや看板の文字に、住民たちのたくましさと、自然との共存の知恵がにじんでいます。

    桜島から戻る頃には、日も傾き、温泉の看板が次々と灯りはじめました。

    鹿児島は温泉王国でもあります。

    今回は市内から少し離れた指宿(いぶすき)へ向かうことに。

    道中、車窓から見えるのは、緩やかに続く山並みと田園風景、そしてどこまでも伸びる海岸線。

    指宿に着くと、まず出迎えてくれるのは、あの名物「砂むし温泉」。

    浴衣を着て波打ち際の砂に横たわり、熱々の砂をスタッフが身体に丁寧にかけてくれる。

    じわじわと身体の芯まで温まっていくその感覚は、まさに「地球の恵みそのもの」に包まれているようでした。

    波音をBGMに、目を閉じれば、心の疲れまでゆっくりと溶けていくような、そんな癒しの時間でした。

    夕食は、指宿の宿でいただいた黒豚しゃぶしゃぶ。

    甘みのある脂身と、さっぱりとした味わいが絶妙で、一口ごとに思わずうなるほどの美味しさ。

    地元の野菜も瑞々しく、温泉でゆるんだ体にやさしく染みわたっていきます。食後には焼酎を一杯。

    芋の香りがほのかに広がり、鹿児島の夜にぴったりの締めくくりでした。

    旅の最後には、知覧(ちらん)へも足を伸ばしました。

    ここには、「知覧特攻平和会館」があります。

    重いテーマではありますが、どうしても訪れておきたい場所でした。

    展示されている手紙や遺品、遺影の一枚一枚に触れるたびに、胸が締めつけられました。

    ただ「若さ」や「勇気」といった言葉では片づけられない、彼ら一人ひとりの人生が、確かにここに存在していたのだということ。

    その重みを胸に、外に出ると、知覧武家屋敷の静かな町並みが、そっと心を落ち着かせてくれるようでした。

    鹿児島――そこには、火の山に見守られながら、過去と現在をつなぎ、未来へと歩み続ける人々の暮らしがありました。

    自然の脅威も、歴史の痛みも、すべてを抱きしめてなお、人は生きる。

    その姿に、私は静かに感動を覚えました。

    この土地を離れる日、桜島がその火口からふわりと煙をあげていました。

    まるで「またおいで」と言ってくれているように。

    私は静かにうなずきながら、再び九州の旅路をたどることを、心に決めたのでした。


    【おわりに】
    ――七つの風景を心にしまって、再び日常へと帰る朝。旅の終わりは、いつも少しだけ切なく、そしてあたたかい。

    九州をめぐるこの旅が始まったのは、ふとした言葉がきっかけでした。

    「九州って、一言で言えないほど表情が違うよね」。

    その言葉通り、実際に歩いてみると、この地には七つの県、七つの文化、七つの人々、そして七つ以上の物語が息づいていました。

    博多の喧騒と屋台の灯り、佐賀平野に揺れる麦の穂、長崎の丘に咲く異国の記憶、熊本城の石垣に宿る時代の重み。

    大分の山間に湯けむりが立ち上る朝、宮崎の海辺で風にたなびく椰子の葉、鹿児島の桜島が静かに見守る町並み――そのすべてが、それぞれの「九州」を持っていたのです。

    私が旅に出る理由は、いつも同じではありません。

    何かから逃げたくて出ることもあれば、何かに出会いたくて出ることもある。

    でも今回の旅は、言うならば「確かめに来た」のかもしれません。

    かつて訪れた地がどんな風に変わっているのか、変わらずにいてくれるものがあるのか。

    そして何より、自分自身がどう変わってこの風景を見るのか。

    旅というものは、風景そのものよりも、そこに自分の目がどう映るかによって、その意味が変わっていくものだと思います。

    同じ桜を見ても、春を喜べる時と、涙をこらえるように眺める時がある。

    同じ海辺の夕焼けを見ても、誰かのことを想いながら見るときと、ただ静かに孤独を受け止めるときがある。

    だからこそ、旅は「今」の自分を映し出す鏡でもあるのです。

    九州という大地は、その鏡として、あまりにも豊かで、あまりにも深かった。

    都会のように騒がしくもあれば、山奥の静寂もある。

    人の手で整えられた景観もあれば、何千年も変わらぬ自然もある。

    にぎわいと静けさ、その両極を持ちながらも、どちらも否定することなく受け入れている。

    それはまるで、人間の心そのもののようでした。

    喜びも悲しみも、強さも弱さも、全部を抱えながら生きている。

    それを肯定してくれる土地――それが、九州だったように思います。

    そして、出会った人々の笑顔。

    旅先で出会った老夫婦、偶然入った喫茶店のマスター、宿で話しかけてくれた子どもたち。

    観光地のガイドブックには載っていない、ささやかな会話ややさしさが、この旅を豊かにしてくれました。

    九州の人たちは、とても静かに、そしてとても自然に「ようこそ」と言ってくれます。

    その言葉に含まれるぬくもりが、旅人の心をふんわりと包み込んでくれるのです。

    それに、旅の終わりは、必ずしも別れではないのだということも、この旅が教えてくれました。

    たとえその場を離れても、心に残った風景や人の言葉は、ずっと胸の奥に生き続けます。

    季節が変わっても、年を重ねても、ふとした瞬間に、あの町の風の匂いや、あの川のせせらぎが、思い出の中からそっと顔を出してくれる。

    そうして、旅は終わるのではなく、続いていくのです。

    この旅の記録を書きながら、私は何度も、あの朝霧の中に立ちすくんだ渓谷や、しんとした神社の境内に戻っていきました。

    時間を旅するように、言葉で風景をたどる。

    読み返すたびに、また新しい感情が湧いてくる。

    そんな旅が、九州という場所にはありました。

    もし、これを読んでくださったあなたが、ほんの少しでも「旅に出たい」と思ってくれたなら、それはきっと、あなたの中の“旅の種”が静かに芽吹いた証なのだと思います。

    行き先がどこであれ、大切なのは、自分の心が動いたというその一点です。

    旅に出るのに、特別な理由はいりません。

    日常から一歩だけ外に出て、五感を研ぎ澄ませれば、もうそれだけで十分に旅は始まっています。

    そしてもし、どこへ行こうか迷ったなら、私は自信を持って「九州」をおすすめします。

    七つの表情を持つこの地は、きっとあなたの“今”に寄り添い、優しく迎えてくれることでしょう。

    九州の空の色、川の音、温泉の湯気、祭りの熱気、風に揺れる田んぼの緑、漁港に並ぶ魚たちのきらめき、そして、人々のまなざし。

    それらすべてが、旅人の心に小さな灯をともしてくれる、そんな不思議な力を持っていました。

    ありがとう、九州。

    きっとまた、戻ってきます。

    いや、戻らずにはいられない。

    だって、ここにはまだ、私の知らない「あなた」がたくさん待っているのだから。

    さあ、旅は続きます。
    にぎわいも、静けさも――すべてを包み込む九州という地へ、またいつか。

  • にぎわいも、静けさも。〜九州、七つの風景を巡る旅〜②

    【3】長崎:異国情緒と歴史が交差する港町

    佐賀を後にし、次に向かうは長崎。

    九州の西端に位置し、港町として発展してきた長崎は、過去の栄華と異国文化が色濃く息づいている場所です。

    長崎の風景は、海に面した街並みと緑豊かな山々に囲まれ、まるで時代を超えてここに集まったさまざまな文化が交わり合っているかのような、独特の雰囲気を持っています。

    長崎の街を歩くと、ヨーロッパ風の建物や異国情緒あふれる街角、さらには日本らしい寺社仏閣などが混在しており、その光景はまさに「東洋と西洋の架け橋」。

    ここには、400年以上前の「鎖国時代」における貿易と交流の歴史が深く刻まれているのです。

    長崎に来たからには、やはり「平和公園」へも足を運ばずにはいられません。

    1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾が引き起こした悲劇を忘れないための場所であり、その周辺には多くの平和を祈るモニュメントや資料館があります。

    まず訪れたのは、長崎原爆資料館。

    ここでは、原爆の悲惨な影響と、それに立ち向かう人々の勇気や希望が伝えられています。

    資料館に並べられた被爆者の遺品や写真、実際に使用された原爆の模型などを目の当たりにすると、その凄惨な出来事の記憶が脳裏に強く刻まれ、胸が締めつけられる思いがしました。

    しかし、この場所は単なる悲しみの象徴ではなく、未来に向けて平和を築くための強いメッセージが込められていることを感じました。

    平和公園内にある「原爆供養塔」では、多くの人々が手を合わせ、静かな祈りを捧げていました。

    ここで一呼吸おいて、再び平和の大切さを噛み締めることができました。

    長崎の魅力の一つは、その異国情緒溢れる街並みです。

    特に「グラバー園」は、長崎港を見渡す丘の上に広がる美しい洋館群で、幕末から明治時代の貿易商人たちの暮らしが感じられる場所です。

    特に、グラバー邸はその立派な洋風建築が印象的で、当時の商人たちがどのような豪華な生活を送っていたのかを垣間見ることができます。

    園内には、グラバー邸以外にも、いくつかの歴史的な洋館が点在しており、それぞれの建物が長崎の国際的な歴史を物語っています。

    建物の中に入ると、時代を超えた気品とともに、異国の風が感じられるような気がしました。

    長崎でしか感じられない、独特の異国情緒に浸りながら、ゆっくりと館内を見学していました。

    また、グラバー園からは長崎港が一望でき、港に出入りする船や、海の上を漂う風景が実に美しい。

    夕日が海を染める瞬間には、時間が止まったかのように感じるほど、静かで美しい光景が広がります。

    長崎の旅には、欠かせないグルメがあります。

    それはもちろん、「長崎ちゃんぽん」。

    さっぱりとしたスープと、たっぷりの野菜、海鮮や豚肉が入った麺料理で、長崎のソウルフードと言えるでしょう。

    長崎市内の老舗のちゃんぽん屋さんでいただいた一杯は、まさに絶品で、スープの味わいが深く、食べ終わった後にもその余韻が残るほどでした。

    さらに、長崎名物の「カステラ」も外せません。

    柔らかく、ふわっとした甘さが口の中に広がり、まるで優しい時間を味わっているような気分にさせてくれました。

    カステラの歴史はポルトガルから伝わったものだとされていますが、その味わいは今でも多くの人々に愛されています。

    また、長崎には「卓袱料理」などの伝統的な料理もありますが、特に驚いたのは、その新鮮な海の幸を使った料理の数々です。

    港町である長崎ならではの海鮮は、どれも新鮮で、刺身や寿司、煮物に至るまで、海の恵みを存分に味わうことができました。

    長崎の旅で忘れられないのは、地元の人々の温かさです。

    特に印象的だったのは、長崎港で見かけた地元の漁師さんとの出会い。

    彼は釣ったばかりの新鮮な魚を売っているところで、気さくに話しかけてくれました。

    漁師さんは「この魚は朝早くに獲ったばかりだよ。新鮮だから、ぜひ試してみて」と言いながら、笑顔で魚を手渡してくれました。

    その笑顔に心温まると同時に、長崎の人々がこの地に根付いて暮らし、その土地で育まれる食材や文化を大切にしている様子が伝わってきました。

    その後、地元の食材を使った料理をいただき、食の力が人々を繋げていることを強く感じました。


    【4】熊本:大自然と歴史が織りなす、心のふるさと

    長崎を後にして、次に向かうは熊本。

    九州の中央に位置し、雄大な自然と歴史的な遺産が融合するこの地には、訪れるたびに新しい発見があります。

    熊本はその美しい山々や川の景観に加え、何よりも象徴的な存在である「熊本城」があり、その存在感は圧倒的です。

    この土地には、豊かな自然とともに、厳しい歴史を生き抜いてきた人々の力強さを感じます。

    戦国時代の勇将、加藤清正公の築いた名城、そして「おもてなし」の心を大切にする県民性。

    どこを歩いても、熊本の土地が持つ温もりが感じられるのです。

    熊本を代表する名所と言えば、何と言っても「熊本城」です。

    日本三大名城の一つに数えられるその姿は、他の城とは一線を画す美しさを持っています。

    城内には、戦国時代から続く歴史的な建造物が多数残り、築城時に用いられた技術や美学が今なお息づいています。

    熊本城の最も印象的な特徴は、その堅牢さ。

    城壁は巨石を積み上げた独特の「石垣」で知られ、特に「武者返し」と呼ばれる曲線状に削られた石垣は、敵の攻撃を防ぐための巧妙な設計が施されています。

    その設計の精巧さを目の当たりにすると、戦国時代の人々の知恵と技術に感嘆せずにはいられません。

    私が訪れた時、熊本城は震災による修復作業が続いていましたが、それでもその壮大さは色褪せることなく、天守閣から眺める景色は圧巻でした。

    城の周囲に広がる公園内では、桜の季節になると美しい花が咲き誇り、まるで時が止まったような美しい光景が広がります。

    熊本の魅力は、もちろん歴史だけではありません。大自然もまた、この地を訪れる理由の一つです。

    特に「阿蘇山」は、その規模と美しさで多くの人々を魅了し続けています。

    阿蘇山は活火山であり、広大なカルデラが特徴的で、その大きさは驚くべきものです。

    阿蘇の大草原を走る風を感じながら、草原を歩いたり、乗馬を楽しんだりすることができるのも、この地ならではの魅力です。

    広がる大地と青空、そして雄大な山々が織りなす景色は、まさに「自然の力」を感じさせてくれます。

    特に「阿蘇五岳」の美しい景観は圧巻で、その姿を見ていると、自然の中に身を委ねる贅沢な時間を感じることができます。

    また、阿蘇には温泉地も多く、心身ともにリラックスできる場所が点在しています。

    温泉につかりながら、四季折々の景色を楽しむことができるのも、この地の大きな魅力です。

    熊本と言えば、やはり「馬刺し」や「辛子蓮根」といった郷土料理が欠かせません。まず「馬刺し」。

    新鮮な馬肉を薄切りにしたものは、その鮮度の良さに驚きました。

    口に入れると、肉質がとても柔らかく、ほのかな甘みが広がります。

    醤油やニンニクを添えていただくと、その美味しさが一層引き立ちます。

    また、「辛子蓮根」は、熊本独特の料理で、辛子を詰めた蓮根を揚げたもの。

    ピリっとした辛さと、蓮根のシャキシャキした食感が絶妙にマッチしており、やみつきになる味わいです。

    これらの料理を地元の居酒屋で楽しむと、熊本の土地の温もりが心に沁みます。

    さらに、熊本には「だご汁」や「いきなり団子」など、素朴ながらも心に残る美味しい料理がたくさんあります。

    どれも地元の素材を生かした料理で、シンプルながらもその味わい深さに感動しました。

    熊本の魅力は、その風景や食べ物だけではありません。

    何よりも、熊本の人々の温かさが心に残ります。

    例えば、阿蘇の町で訪れた小さなカフェで出会った店主の女性は、地元の農産物を使ったお菓子を提供していて、私に「どれも地元の素材を大切にしているんですよ」と語りかけてくれました。

    その言葉には、地元への愛情と誇りが込められていて、思わずこちらまで心が温かくなりました。

    また、熊本城の近くで立ち寄ったお土産屋さんでは、地元の人々が「どうぞゆっくり見ていってくださいね」と声をかけてくれることが多く、まるで故郷に帰ってきたかのような、心安らぐひとときが続きました。

    その一つひとつの出会いが、熊本を訪れるたびに大切な思い出として心に残ります。


    【5】大分:湯けむりに包まれて、心ほどけるやすらぎの地

    熊本の豊かな大地を後にし、列車で東へ。

    車窓から広がる山あいの風景を眺めているうちに、次第に空気がしっとりと柔らかくなっていくのを感じます。

    大分県――この地名を聞くだけで、多くの人の脳裏に浮かぶのは、やはり「温泉」ではないでしょうか。

    別府、由布院、長湯、筋湯……県内には数え切れないほどの名湯が点在し、それぞれが個性豊かで、訪れる人の心と体をやさしく包んでくれます。

    今回の旅では、湯けむりに誘われるままに、いくつかの温泉地を巡ることにしました。

    まず足を運んだのは、言わずと知れた“湯の都”別府。

    街に降り立った瞬間、もくもくと立ち昇る湯けむりに迎えられます。

    どこを歩いても、道路脇や民家の間から湯気が立ちのぼっており、まるで地面そのものが呼吸しているような不思議な感覚に包まれます。

    別府には「地獄めぐり」と呼ばれる観光名所があり、赤く煮えたぎる「血の池地獄」や、コバルトブルーに輝く「海地獄」など、自然の力が作り出した驚異の風景に息を呑みました。

    地獄とは名ばかりで、その神秘的な美しさに、むしろ“極楽”という言葉がふさわしいのではと感じるほど。

    また、地元の人たちが日常的に利用している共同浴場にも立ち寄ってみました。

    古びた木造の湯屋には、観光地の賑わいとはまた異なる、静かな時間が流れています。

    常連のおじいさんと肩を並べて湯に浸かるそのひとときは、どこか懐かしく、あたたかい。

    「別府の湯は、心までほどけるよ」と、地元の人が言っていた言葉が、湯船の中でじんわりと染み込んできました。

    別府から山を越えて、次に訪れたのは湯布院(由布院)。

    こちらは別府とはまた趣の異なる温泉地で、どこか洗練された、静謐な雰囲気が漂っています。

    由布岳を背景にした温泉街には、センスの良いカフェやギャラリー、雑貨店が立ち並び、散策するだけでも心が満たされていきます。

    朝霧の中に浮かぶ金鱗湖の姿は、まさに幻想的。

    湖面から立ちのぼる霧と、静かに波紋を描く水面、その向こうに見える由布岳――この景色を前にすると、思わず言葉を失ってしまいます。

    宿は、山あいにひっそりと佇む一軒宿を選びました。

    部屋付きの露天風呂に身を沈め、夜空を見上げれば、満天の星。

    聞こえてくるのは、遠くで鳴く虫の声と、風が木々を揺らす音だけ。

    都市の喧騒をすっかり忘れ、ただ“生きている”ということを、静かに、深く実感できる時間がそこにはありました。

    大分の旅で心に残ったのは、温泉だけではありません。

    食の楽しみもまた、旅の大きな醍醐味でした。

    特に別府で味わった「とり天」は、衣がサクサク、中はジューシーで、シンプルながら一度食べたら忘れられない味。

    からし酢醤油でいただくと、その奥行きある味わいに、思わずおかわりしてしまいそうになりました。

    そして、海に面した大分ならではの贅沢といえば、「関アジ」「関サバ」。

    新鮮な刺身はコリコリとした食感がたまらず、脂の乗った旨みが口の中に広がります。

    港町の小さな寿司屋で、大将が丁寧に握ってくれた一貫は、まるで海そのものを味わうかのようでした。

    ほかにも、大分名物「だんご汁」や、優しい甘さが特徴の「やせうま」など、地元の人々に親しまれている郷土料理の数々が、心までほっこりと温めてくれました。

    湯につかり、美味を味わい、静かな自然の中で自分自身と向き合う時間。

    それが、大分の旅で得た何よりの収穫だったのかもしれません。

    温泉は単に体を温めるだけでなく、心の奥にあるこわばりまでをも、ゆっくりと溶かしてくれる。

    そんな力が、この土地には確かにあると感じました。

    別府の湯けむり、由布院の霧、そして出会った人々のやさしいまなざし――それらが私の中で、ひとつの風景として静かに重なり、今もなお胸の奥で湯気のように立ちのぼり続けています。

  • にぎわいも、静けさも。〜九州、七つの風景を巡る旅〜①

    【はじめに】

    九州――本州から海を渡ったその先に広がる、火山と緑の大地。

    海と山が織りなす壮大な地形の中で、古の神話が息づき、湧き出る温泉が旅人の心と体を癒し、そして人の営みが、やさしく、力強く根づいています。

    ただ「南の島」と呼ぶにはあまりにも奥深く、ただ「自然が豊か」と言うにはもったいない。

    九州には、もっと深く、もっと濃密な、時間と空気が流れているのです。

    ここを訪れるたびに思います。

    九州という土地は、地図上では一つの“島”に見えるけれど、その中にはまるでいくつもの小宇宙があるようだと。

    山間に抱かれた集落の静けさと、港町のざわめき。

    大地を突き上げるような火山の荒々しさと、海辺を撫でる潮風の穏やかさ。

    そのすべてが、ひとつの枠の中に共存している不思議。

    そしてそれぞれが、まるで違う命を持っているかのように、色も匂いも異なる“物語”を語ってくれるのです。

    この旅のきっかけは、ある日ぽつりと交わした、友人との会話でした。
    「九州って、一言では言い表せないよね」
    その言葉に、心の奥が不意に反応したのを覚えています。
    旅に出たい。

    けれど、ただ観光地を巡るのではなく、土地の“息吹”にもっと近づきたい。

    人と出会い、文化に触れ、そして自分の中に静かに何かを落とし込むような、そんな旅がしたい――。

    そうして私は、再び九州を目指す決心をしたのです。

    この地には、火山のエネルギーが生み出す圧倒的な自然があり、歴史の襞に包まれたまちがあり、そして、人の手と祈りによって守られてきた日常があります。

    阿蘇の草原を吹き抜ける風、桜島の灰が舞う空、長崎の異国情緒漂う坂道、温泉地に立ちのぼる湯けむり。

    どの風景も、決して一つの時代だけのものではありません。

    太古から続く地層のように、さまざまな時代が折り重なり、現在を形作っている。

    それは旅人にとって、まるで時間旅行のような感覚をもたらしてくれます。

    そして何よりも、九州で感じたのは、人のぬくもり。
    たとえば、駅のホームで電車を待っていたとき、隣にいたおばあちゃんが「今日はいい天気やね」とにっこり笑いかけてくれた瞬間。

    温泉宿で働く仲居さんが、「遠くから来てくれたんやね、ゆっくりしてって」と言ってくれたとき。

    小さな食堂で、「もうひと品サービスね」と言ってくれたご主人の笑顔。

    そのひとつひとつが、派手ではなくとも確かな温かさをもって、胸にじんわりとしみ込んできました。

    観光名所をめぐる旅ももちろん素晴らしい。

    けれど私は、地元の人が歩く裏路地の風景にこそ心惹かれます。

    観光ガイドには載らないような、小さな神社、ひっそりと咲く季節の花、石畳の坂道、雨に濡れた竹林、ぽつんと一軒だけ開いていた喫茶店――。

    そうした“名もなき風景”の中にこそ、その土地の本当の魅力が宿っているのではないでしょうか。

    今回の旅では、福岡・佐賀・長崎・熊本・大分・宮崎・鹿児島という七つの県をめぐり、それぞれの地で出会った風景、味、人々とのふれあいを、一篇の物語のように綴っていきます。

    煌びやかな観光地だけでなく、ふと足を止めた小道の先、暮らしの中に息づく文化や言葉、祈りのかたち。

    そのひとつひとつを、心のカメラで静かに写しとるように、丁寧に旅を続けてまいります。

    にぎやかな屋台の灯りに心を弾ませた夜もあれば、山の稜線から昇る朝日に心を打たれた朝もありました。

    温泉につかって、ひとり静かに過ごした時間もあれば、偶然出会った人と肩を並べて笑い合った夜もありました。

    旅とは、そうしたすべての断片の集合体。

    それは地図に残らなくとも、心の中に確かに刻まれていく、大切な時間なのです。

    この旅の記録が、読み手であるあなたにとっても、ほんの少しでも“旅の気配”となり、心を揺らす風のように感じられたら、これ以上の幸せはありません。
    それでは、時ににぎやかに、時に静けさの中で。

    九州という七彩の世界へ、ゆっくりとご一緒に――まいりましょう。


    【1】福岡:賑わいと郷愁が交差する街

    新幹線を降り立った瞬間、福岡の空気はどこかやわらかく、そして少しだけ騒がしい。

    都会のスピード感と、人懐っこい人々のまなざしが、せわしなさの中に不思議な温もりを添えてくれる。そんな街が、福岡。

    駅からすぐの博多エリアは、まさに“九州の玄関口”。

    高層ビルが立ち並び、百貨店やオフィス街が交錯する都市の風景。

    その合間を縫うように、地元の人々が忙しなく行き交い、すぐそばには観光客の笑い声が混じる。

    けれどその賑わいが、どこかほっとするのはなぜだろう――そう思いながら、私は旅の第一歩を踏み出しました。

    まず訪れたのは、櫛田神社。

    博多っ子たちの誇りである「博多祇園山笠」が奉納されるこの神社には、街の中心にありながら、まるで別世界のような静けさが流れていました。

    参道に立つと、空気が少しだけ凛と引き締まり、さっきまでの雑踏が遠くに感じられるのです。

    境内には巨大な「飾り山笠」が展示されており、その緻密な造形と迫力に思わず圧倒されました。

    祭りの季節には、これが町を駆け抜けるというのだから、想像するだけで胸が高鳴ります。

    祭りを知らずに福岡を語るな――そんな声が聞こえてきそうな、土地の誇りと熱気が感じられました。

    神社を出ると、風に揺れる提灯と、通りに立ち並ぶ屋台の気配。

    福岡という街は、神と人、静と動、過去と今とが自然に溶け合っている。

    そんな印象が、少しずつ心に染み込んでいきました。

    夜の帳が下りると、福岡のもう一つの顔――“屋台の街”が姿を現します。

    中洲の川沿いには、次々に灯る提灯と、湯気を立てる屋台。

    どこからともなく漂うラーメンの香りに誘われて、私はひとつの屋台に腰を下ろしました。

    「お姉ちゃん、旅の人かい?」 隣に座った年配の男性が声をかけてくれました。

    地元で電気工事をしているというその方は、「毎晩ここに来るんよ、屋台は人に会えるけんね」と笑います。

    屋台のご主人も、「うちは常連さんも観光客も関係なし。

    隣になった人とは、もう“ご縁”やけん」と、手際よく豚骨ラーメンを作ってくれました。

    湯気の向こうに見えるのは、都会の喧騒ではなく、人と人とが寄り添うぬくもり。

    肩を並べて、知らない者同士が笑い合える不思議な空間。

    それが、福岡の屋台文化が持つ魔法なのでしょう。

    ラーメンのスープを最後まで飲み干し、「また来ます」と伝えると、みんなが「またね」「気をつけて」と声をかけてくれる。

    それだけで、もうこの街にひとつ思い出ができたような気がしました。

    次の日、少し足を伸ばして太宰府へ。

    学問の神様・菅原道真公を祀る太宰府天満宮には、全国から多くの参拝者が訪れます。

    境内へと続く参道には梅ヶ枝餅の香ばしい香りが立ちのぼり、旅の足をほんのり甘くしてくれます。

    鳥居をくぐると、どこか厳かで、それでいて親しみのある空気が流れていました。

    静かな池に映る社殿、鮮やかな朱の橋、そして枝を大きく広げた御神木。

    そこには、千年という時間が静かに蓄積された“祈りの重み”がありました。

    境内の絵馬には、学生の願い、親の願い、そしてささやかな夢が無数に掛けられていて、一つひとつの文字に胸がじんとします。

    たとえ誰のものでも、そこに込められた気持ちはどこか共鳴するものがある――そんな“人の想いの重なり”を、この場所はそっと抱きとめてくれているようでした。

    もう一つ足を延ばして、柳川にも立ち寄りました。

    城下町の名残を色濃く残すこの町では、「川下り」が名物。

    船頭さんの巧みな竿さばきに導かれて、小舟はゆっくりと水面を滑っていきます。

    三月の陽光を浴びながら、川沿いに咲き始めた花々と、古い土蔵、柳の枝がそよぐ風景を眺めていると、まるで時が止まったかのような感覚になります。

    船頭さんの唄う“どんこ舟唄”が風に乗って届いてきて、まるで夢の中にいるよう。

    「ここはね、水と生きてきた町なんよ」と、船頭さんがぽつりと話してくれました。

    田畑を潤し、人を運び、時には命を守った水。

    それはこの町にとって、単なる風景ではなく、生活そのものだったのでしょう。

    この地に数日滞在して感じたのは、福岡の“懐の深さ”でした。

    都市としての洗練、食の豊かさ、人のあたたかさ、歴史の深み……すべてが押しつけがましくなく、さりげなく、けれど確かに旅人を包んでくれるのです。

    派手な観光地ではなくても、たとえば駅前の喫茶店や、地元の書店、神社の境内に舞い降りた一枚の落ち葉。

    そうしたささやかな場面にも、心が動かされる。

    福岡という土地には、そんな“感情の余白”が静かに広がっていました。

    旅の終わり、博多駅のホームに立つと、ふと風が頬をなでていきました。

    それはまるで、「またおいで」と言ってくれているようで、私は思わず小さくうなずいていました。


    【2】佐賀:静けさの中に宿る歴史と美しい風景

    福岡を後にして、次に訪れたのは佐賀県。

    福岡の賑やかさから一転、静かな風景が広がる佐賀は、どこか時がゆっくりと流れているような空気に包まれていました。

    大きな観光地がひしめくことはなく、その代わりに小道や古びた町並みに、懐かしさと温かみを感じます。

    佐賀を旅するのは、まるで過去の時間がそのまま息づいているような、そんな感覚を味わえる旅です。

    古き良き時代を感じることができ、現代と過去がうまく調和している場所。

    それが、この県の魅力だと思います。

    まずは、佐賀市内の佐賀城跡に足を運びました。

    ここはかつて、佐賀藩の藩主が住んでいた場所で、今もその名残を残す歴史的なスポットです。

    城跡に足を踏み入れると、広がるのは緑豊かな公園で、城の土塁や堀が今も美しく保存されています。

    季節は春、桜が満開を迎え、佐賀城跡の公園はピンク色に染まっていました。

    桜の花が優雅に舞い落ちる中、城跡の石垣や門を歩きながら、静かにその歴史を感じることができました。

    この場所では、過去に生きた人々が今もどこかで語りかけているような気がしました。

    また、隣接する日本庭園「佐賀城下町庭園」では、手入れの行き届いた庭木と池が静かな美を湛えており、そこに足を踏み入れると、思わず立ち止まってしまうほどの穏やかな時間が流れていました。

    庭の真ん中にある大きな池には、優雅に泳ぐ鯉が映り、その水面にさえぎるものは何もありません。

    時折吹く風が、池に小さな波を作り、その波紋が広がっていく様子に、何とも言えぬ心地よさを感じました。

    佐賀のもう一つの見どころは、「吉野ヶ里遺跡」。

    ここは、弥生時代の集落跡として有名な場所で、古代の生活の痕跡を感じることができる貴重な遺跡です。

    遺跡内には、実際に復元された住居や祭祀場があり、当時の人々がどのように暮らしていたのかを知ることができます。

    遺跡の広大な敷地内を歩くと、目の前に広がるのは、弥生時代の暮らしの匂いが漂う風景。

    土器が並べられた跡や、今もそのまま残っていると思わせるような建物の形が見受けられ、どこか神聖な気持ちにさせてくれました。

    当時の人々が自然と共に生き、共同体を築いていた姿を想像しながら、じっくりと見学していると、過去と現在が自然と重なり合う瞬間を感じられました。

    あの時代の人々が、どんな思いで生活していたのか、どうしてもその歴史をもっと深く知りたくなります。

    佐賀の自然を感じた後は、地元の食文化にも触れずにはいられません。

    佐賀県は、美味しい食材がたくさんある場所としても知られており、特に「佐賀牛」はその名を広く轟かせています。

    鳥栖市の郊外にある小さなレストランで味わった佐賀牛のステーキは、柔らかくて甘みのある肉質が口の中で広がり、まさに絶品。

    とろけるような食感に、ただただ感動してしまいました。

    その後、近くの直売所で手に入れた新鮮な野菜や、特産の「有明海の海苔」を使った料理にも舌鼓を打ちました。

    海苔の香りが豊かで、シンプルにご飯と一緒に食べるだけでもその美味しさが際立ちます。

    地元の人々が愛する食材を、心を込めて調理した料理に、心から癒されました。

    また、佐賀には温暖な気候が生んだ美しい田園風景も広がっています。

    遠くの山々を背景に、色とりどりの花々が咲き誇り、のどかな田畑が続く風景に心が落ち着きます。

    そんな景色を眺めながら、散歩をしたり、のんびりと休憩をとったりするだけで、身体も心もすっかりリフレッシュされました。

    佐賀の旅で特に心に残ったのは、やはり人々の温かさです。

    佐賀は観光地として派手に紹介されることは少ないかもしれませんが、それが逆にこの土地の良さを引き立てているように感じます。

    地元の人々は、観光地を案内するというよりも、まるで「家に帰ってきたような気持ちで楽しんでいってくださいね」と言わんばかりに、温かく迎え入れてくれました。

    商店街で地元のおばあちゃんと話し込んだり、途中で出会った人々が薦めてくれた穴場スポットを訪れたりと、何気ない日常の中に多くの幸せを感じることができました。

    その中でも、地元のお土産屋さんで出会った若い店主の言葉が心に残っています。

    「佐賀は静かな町ですが、その静けさにこそ、心を落ち着けてくれる力があるんです。忙しい日常から少し離れて、ゆっくりと自分を取り戻すことができる場所だと思います。」

    その言葉を胸に、佐賀の地を後にしました。

  • 四国巡礼:風と水が紡ぐ島の記憶

    はじめに:心がほどける、島の時間へ

    四国――本州から海を渡って辿り着くこの島の名を聞いたとき、あなたの心には何が浮かぶでしょうか。

    お遍路の白衣をまとった巡礼者の静かな歩み、腰に手を当ててすする熱々の讃岐うどん、潮の香りを運ぶ瀬戸内の風、荒々しくも美しい太平洋のうねり、阿波おどりの躍動、早朝の市場に響く土佐弁、陽だまりの中でたわわに実ったみかんの木々……。

    どれもがこの地に根ざし、そして旅人の記憶の中にしっかりと刻まれていく、四国ならではの情景です。

    私はこの春、そんな四国の四県――徳島、香川、愛媛、高知を巡る旅に出ました。

    地図の上では近く見える町も、実際に足を運べば、海があり、山があり、時には川が立ちはだかり、まるで自然に抱かれながら歩いているような、ゆったりとした時間が流れていました。

    この旅の間、幾度となく心に残ったのは、「四国は人の優しさでできている」という思いです。

    道を尋ねれば、ていねいに地図を描いてくれるおじいさん。

    夕暮れの漁港で、海の香りをまとったまま笑顔で話しかけてくれた漁師さん。

    道の駅で出会ったおばちゃんがくれた、傷だらけだけど甘い文旦。

    その一つ一つが、旅の疲れをそっと溶かし、まるで自分もこの島の一部になったかのような、あたたかさを運んでくれました。

    また、四国の土地は「語りかけてくるような静けさ」があります。

    それは、手を加えすぎず自然の姿を残した海辺や、木漏れ日の中を通り抜ける古道、長い歴史の中で人々が祈りを重ねてきた神社仏閣に宿る気配からも感じ取れます。

    そこに立つと、今という一瞬がとても愛おしく、胸の奥に静かな熱が灯るのです。

    そんな四国の魅力を、できる限り言葉にして残したい――それがこのブログを綴る理由です。

    派手さこそないけれど、訪れた人の心にじんわりと沁み込むような時間が、四国には確かに存在しています。

    どうかこの文章が、あなたの中の旅心をそっとくすぐり、まだ見ぬ景色への想像を膨らませる小さなきっかけになりますように。

    そしていつか、四国の風に触れ、光を浴び、その地の人々の言葉に耳を傾ける日が訪れますように。

    それでは、島の記憶とともに巡る、四国の物語を始めましょう。


    【1】徳島:踊りと祈りが交差する青の国

    朝一番の高速バスに揺られて、淡路島を越え、大鳴門橋を渡ると、眼下には渦を巻く鳴門の海。

    潮流の激しさとともに、旅の幕開けを祝うかのようなダイナミックな景色が目の前に広がってきます。

    徳島――四国の東の玄関口は、静かな町の佇まいの奥に、力強い魂が宿る場所でした。

    まず足を運んだのは、鳴門市にある「渦の道」。

    ガラス張りの遊歩道から見下ろすと、そこにはまさに自然のエネルギーが渦を巻く光景。

    潮が満ち引くたびに生まれるこの奇跡のような現象は、自然が創り出す芸術のようで、しばし言葉を失いました。

    風が頬をなで、足元の海が唸る――ただそこに立っているだけで、心が澄んでいくような感覚になります。

    続いて訪れたのは、徳島市の「阿波おどり会館」。

    毎年夏に開かれる阿波おどりは、徳島の魂ともいえる祭りですが、この施設では一年を通じて踊りの魅力を感じることができます。

    実演ステージでは、鳴り響く鉦と太鼓の音、そして「ヤットサー!」の掛け声に乗せて舞う踊り手たち。

    その軽やかな足取りと、どこか哀愁を帯びたメロディーに、ただのお祭りを超えた“祈り”のようなものを感じました。

    「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損損」――この言葉は、観光用のキャッチフレーズではありません。

    舞台の最後には、観客も舞台に呼ばれて一緒に踊る時間があり、私も思い切って輪の中へ。

    はじめは照れくさかったものの、手足を動かすうちに自然と笑顔がこぼれ、不思議な一体感が生まれていました。

    踊りとは、人と人との境界線をふわりと取り払う、不思議な力を持っているのかもしれません。

    また、徳島は自然の豊かさにも事欠きません。

    眉山ロープウェイで市街を一望した後は、県西部の祖谷(いや)へと足をのばしました。

    山深い渓谷にかかる「祖谷のかずら橋」は、かつて平家の落人が追手から逃れるために造ったと伝えられる吊り橋。

    足元にぎしぎしと鳴る音、眼下に流れる清流の音――命綱のような橋を渡るその瞬間、自然の中に身を置くという感覚が五感すべてを通して押し寄せてきます。

    旅の締めくくりは、徳島ラーメンで。

    濃厚な豚骨醤油スープに生卵を落とし、甘辛く煮た豚バラ肉がのった一杯は、体の奥まで染み込むような滋味深さ。

    徳島の味は、どこか懐かしくて、優しいのです。

    徳島の旅は、「動と静」が絶妙に交差するものでした。

    海の渦が巻き、太鼓が鳴り響き、踊りが舞い上がるその傍らに、深い山々の静寂と、祈るような踊りの気配。

    にぎやかさと静けさのどちらもが、人の営みの中に自然と溶け込んでいるのです。

    この地を後にする頃には、「また来よう」という気持ちが自然と湧いていました。

    派手な何かがあるわけではないけれど、人と風景の温もりが、心のどこかをずっとあたためてくれる――徳島は、そんな場所でした。


    【2】香川:空と海のあいだで、うどんに恋をする

    徳島を後にして、瀬戸内海を望みながら電車に揺られることしばし。

    穏やかな海と山が交差する風景が広がってきた頃、「うどん県」として名高い香川県に足を踏み入れました。

    香川という土地は、不思議な魅力を持っています。空が高く、海はおだやかで、人の声がどこか丸い。

    日常のすぐ隣に、心がほどけていくような時間がそっと息づいているのです。

    まず訪れたのは、讃岐のうどんの聖地ともいえる「うどん巡り」。

    朝7時、地元の人に教えてもらった製麺所に向かい、湯気の立つ店内で一杯目を注文しました。

    打ち立て、茹でたての麺は、つるりとした喉ごしと、もちもちとした弾力が見事で、噛みしめるごとに小麦の香りがふんわりと広がっていきます。

    出汁は優しく、昆布といりこの旨味がじんわりと体を包むよう。

    朝食なのに、心の底から「生き返る」と思えるほどでした。

    讃岐うどんの旅は、まるで“食の巡礼”。

    二軒目、三軒目と店を変えて食べ歩くうちに、その土地に根づく文化や人々の息遣いに触れていく感覚があります。

    製麺所の片隅で食べる一杯には、観光地とはまた違う“日々の暮らしの美しさ”が詰まっていて、それがとても尊く感じられるのです。

    腹ごなしに向かったのは、琴平町にある「金刀比羅宮(ことひらぐう)」。

    通称“こんぴらさん”と呼ばれるこの神社は、長い石段が有名で、本宮までは785段、奥社まで登れば1368段にもなります。

    ゆっくりと石段を踏みしめながら登っていくと、汗ばむ体と引き換えに、少しずつ心が澄んでいくのを感じました。

    途中には、立派な大門や御神馬の像、そして時折ふっと吹き抜ける風。

    その一つひとつが、参拝の道のりに彩りを添えてくれます。

    そしてようやくたどり着いた本宮からの眺めは、まさに絶景。

    讃岐平野が眼下に広がり、遠くには瀬戸内海のきらめきが――その風景を見ていると、「努力の先に待っているものは、時としてこんなに静かで、美しいんだな」と思わず呟いてしまいました。

    そしてもうひとつ、香川の魅力として外せないのが「直島」。

    アートの島として名を馳せるこの場所は、フェリーでゆるやかな瀬戸内海を渡って訪れる、まるで夢のような空間です。

    草間彌生の巨大な南瓜のオブジェが海辺に佇み、ベネッセハウスミュージアムや地中美術館では、建築と自然、そしてアートが一体となった“体感する美”に出会えます。

    静かな海の音を背に、空間に差し込む自然光と対話するように作品を鑑賞していると、時間の概念さえも柔らかくほどけていくようでした。

    直島は、ただ“観る”のではなく、“感じる”ための場所。

    そこにいる自分の輪郭さえ溶けていくような、不思議な浮遊感がありました。

    帰りの船の上から眺めた夕焼けは、空と海がまるで一つになったかのような美しさ。

    光の帯が水面を染め、誰もが言葉を失ってその景色に見入っていました。

    香川の旅は、五感すべてが優しく撫でられるような、穏やかで豊かな時間。

    ひとつひとつが、小さくても確かな幸福を教えてくれるようでした。


    【3】愛媛:坂と湯けむり、そしてやさしき港町

    香川から電車に揺られて西へと向かう道中、ふと車窓を流れる景色の中に、懐かしいような光景が現れました。

    山のふもとに寄り添うように家々が並び、その向こうにはどこまでも穏やかな海。

    そう、愛媛県――そこはまるで、幼い頃に見た絵本の中のような、あたたかく優しい時間が流れる場所でした。

    まず足を運んだのは、松山市。

    中でも外せないのは、やはり「道後温泉本館」です。

    夏目漱石の『坊っちゃん』にも登場するこの名湯は、明治の面影をそのままに残す木造三階建ての建物が、今も湯煙を上げながら旅人を迎えてくれます。

    湯船に身を沈めると、ほどよい熱さのお湯がじんわりと体にしみ込み、旅の疲れがふわりとほどけていくようでした。

    湯上がりには、館内の畳の広間で冷たいお茶を一服。

    軋む廊下の音、風に揺れる暖簾の影……どこか懐かしい音と香りに包まれて、ただ静かに、幸せな時間が流れていきました。

    そして、道後温泉の周辺は小さな坂道と路面電車の風景が魅力的。

    夕暮れ時に石畳の道をそぞろ歩けば、オレンジ色の灯りがぽつりぽつりと灯り、通り過ぎる電車の音がまるで風鈴のように心地よく響きます。

    温泉街の小さな書店や雑貨店にふらりと立ち寄り、地元の人との何気ない会話に耳を傾ける――そんな時間こそ、旅の本質なのかもしれません。

    次に向かったのは、内子町。

    江戸から明治にかけて、木蝋(もくろう)で栄えた町並みは今もその面影を色濃く残しており、白壁と格子戸の町屋が静かに連なります。

    ゆるやかな坂道を歩いていくと、季節の花が道端に咲き、どこか時間が止まってしまったような錯覚に陥ります。

    特に印象に残ったのは「内子座」。

    大正時代に建てられた芝居小屋で、今もなお現役で使われているというから驚きです。

    中に入れば、舞台と客席が一体となったような、観客と演者が“共に空気をつくる”ような場の力を感じました。

    舞台の奥にある奈落や回り舞台の仕掛けも見学でき、まるでタイムスリップしたような体験ができる場所です。

    そして、愛媛の旅でぜひとも触れておきたいのが「みかん」。

    地元の道の駅では、様々な品種の柑橘が所狭しと並び、それぞれに味わいが違うのがまた楽しいところ。

    「せとか」や「甘平(かんぺい)」「はるか」など、名前からして愛らしいみかんたちは、口に入れると果汁がはじけ、瀬戸内の陽ざしがそのまま詰まっているかのような甘さと爽やかさが広がります。

    港町・八幡浜では、のんびりと散歩を楽しみました。

    海風に吹かれながら歩く海沿いの小道、どこか懐かしさを感じる漁村の風景――そこには、人々の暮らしが丁寧に息づいていて、「旅人である自分」がいつの間にか溶け込んでいくような不思議な安心感がありました。

    夜は地元の小料理屋で鯛めしをいただきました。

    愛媛の鯛めしは、地域によって少しずつ異なり、松山風は炊き込みご飯、宇和島風は新鮮な刺身にタレをかけて卵と共にいただくスタイル。

    今回は宇和島風を選びましたが、ぷりぷりの鯛の刺身にご飯と甘辛いタレが絡み合い、思わずため息が出るほどの美味しさでした。


    【4】高知:風が語る、海と龍馬と熱き心

    愛媛から南へ。

    車窓に広がる山々を越え、トンネルを抜けるたびに、空がどんどん広がっていくような感覚がありました。

    そして、ついに高知の街へと辿り着いた時、思わず深呼吸したくなるような開放感が胸いっぱいに広がったのです。

    ここは、高知。太平洋の風が吹き抜ける、土佐の国。

    まず訪れたのは、高知のシンボル「桂浜」。

    龍馬像が遥かなる海を見つめるその姿に、思わず背筋が伸びました。

    どこまでも続く浜辺と、深い青の波が打ち寄せる様子は、まるで歴史と自然が語らう舞台のよう。

    龍馬が見つめていた海の彼方には、どんな未来が映っていたのでしょうか。

    桂浜の高台から海を望み、波の音に耳を傾けていると、ふと時の流れが止まったかのような感覚になります。

    強くて、でもどこか切ないこの風景は、高知という土地の持つ「志」と「孤高」を映し出しているようでもありました。

    その後は、「坂本龍馬記念館」へ。

    彼の生涯や志、そして維新という激動の時代を知るにつれ、一人の人間の情熱がいかに時代を動かし、人の心を揺さぶるかということを改めて実感しました。

    館内には、彼の手紙や遺品が丁寧に展示されており、その筆跡のひとつひとつに、まるで本人の息遣いが宿っているようなリアリティがありました。

    高知市内へ戻り、「ひろめ市場」へと足を運びました。

    ここはまさに、高知らしい賑わいと人情が詰まった場所。

    屋台のように連なる店舗で地元グルメを選び、テーブルを囲んで初対面の人たちと語らう――そんな自由で温かな空気が、この場所には満ちています。

    そして、ここでいただいた「藁焼きカツオのたたき」が忘れられません。

    目の前で豪快に炎を上げながら藁で炙るカツオ。

    表面が香ばしく焼かれ、中はしっとりと赤身のまま。

    にんにくと玉ねぎ、ポン酢をたっぷり添えて口に運ぶと……その瞬間、旨味と香ばしさが弾け、思わず「うまっ」と声が漏れました。

    翌日は、少し足を延ばして「四万十川」へ。

    日本最後の清流とも称されるこの川は、まさに“心の洗濯”をしてくれる場所でした。

    水面は鏡のように空を映し、川辺には小さな沈下橋がそっと架けられていて、まるで昔話の世界に迷い込んだかのような風景が広がっています。

    カヌー体験にも挑戦し、静かに川を滑るように進む時間は、日常から遠く離れた贅沢なひととき。

    川面に落ちる木漏れ日、鳥のさえずり、遠くで響く山の声――すべてが音楽のように調和していて、「生きてるって、こういうことなんだな」と、ふと思いました。

    最後に訪れたのは、「足摺岬」。

    高知県の最南端に位置するこの地は、まさに“果て”を感じさせる景観でした。

    眼下に広がる雄大な太平洋、断崖絶壁の上を吹き抜ける風、そして白亜の灯台が凛と立つその姿。

    ここに立つと、人の営みなどちっぽけに思えるほど、自然の力が全身に迫ってきます。


    おわりに:四国という、心に染み入る風景たちへ

    四国をめぐる旅を終えて、ふと胸に浮かんだのは「懐かしさ」と「温かさ」でした。

    初めて訪れた土地ばかりなのに、なぜか“帰ってきたような気持ち”になれる。四国には、そんな不思議な力があります。

    徳島では、踊りのリズムが血をめぐり、祖谷渓の深い緑が心を浄化してくれました。

    香川では、一杯のうどんに込められた人の想いと、讃岐の大地の広がりに包まれ、瀬戸内の島々の穏やかな風景が、日々の喧騒をそっと癒してくれました。

    愛媛では、道後温泉の湯に心と体を預け、松山城の歴史に触れた時間が、日常とは違うゆるやかな時を与えてくれました。

    しまなみ海道の風、自転車で走るときの爽快感は、今でも体の中に残っています。

    そして高知。

    海が語る物語、龍馬が見上げた未来、ひろめ市場の活気、四万十の静けさ、足摺岬の孤高。

    一つ一つの風景が、そのまま詩になりそうなほど、美しく、深く、心に沁みました。

    四国という土地は、決して派手な観光地ばかりではありません。

    けれど、そこに暮らす人々の温かさ、自然の懐の深さ、歴史の静かな重み――それらが、旅人をやさしく受け入れ、そっと背中を押してくれるような、そんな優しさにあふれています。

    旅の終わりは、いつも少しの寂しさを伴います。

    でも、それは“また戻ってきたい”という証でもあるのです。

    四国の風景や人々に触れたこの旅は、きっと私の中で長く残り続け、折に触れて思い出す“心の風景”になるでしょう。

    ありがとう、四国。

    またいつか、ふと風に誘われるようにして、この島に帰ってきたいと思います。

  • 風と歴史が交差する場所へ ― 中国地方 五彩紀行②

    【4】山口:歴史と海が語りかける静かな余韻

    広島から山陽本線を西へ。

    車窓には、紺碧の瀬戸内海と、なだらかに連なる山の稜線が交互に現れ、旅人のまなざしを静かに誘います。

    窓の外を流れる風景は、どこか懐かしく、そして柔らかい。

    ゆっくりと過去と未来の境界が曖昧になっていくような感覚の中、山口という土地が、そっとその姿を現してくれました。

    山口は、決して派手さを前面に出すような土地ではありません。

    けれど、歩くほどに、感じるほどに、じんわりと心の奥に沁み込んでくる――そんな“静かな余韻”を宿した場所です。

    足を踏み入れた瞬間、空気がすこしやわらかくなったような気がしました。

    音のない歓迎に、こちらも自然と呼吸を深くするようになります。

    最初に訪れたのは、山口市にある「瑠璃光寺」。

    日本三名塔のひとつに数えられる、国宝・五重塔が凛と佇むその姿に、言葉を失いました。周囲を囲む木々がそよぎ、塔のシルエットが池の水面にゆらりと映り込む――その情景は、まるで日本画の世界に迷い込んだかのようです。

    時折、鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてきて、その響きが塔の間に溶け込んでいくようでした。

    この五重塔は、室町時代に建てられたもの。

    応仁の乱も、江戸の泰平も、幕末の激動も、すべてを超えて、今日もここに立っている。

    その静かな佇まいに、人の歴史のはかなさと、祈りの力の強さを感じました。

    陽の光が木漏れ日となって塔の朱色をやさしく照らす午後――そこには、“時の流れ”というものが、まるで絹糸のように柔らかく、そして絶え間なく漂っていたのです。

    その後、長門市へと移動し、かねてから憧れていた「元乃隅神社」へと向かいました。

    海を臨む断崖に、123基の赤い鳥居がずらりと並ぶその姿は、まさに圧巻。

    鳥居が海へと続いていく風景は、神話の世界を現実にしたかのような幻想的な美しさがありました。

    潮風が強く吹きつけ、波音が轟く中、鳥居をひとつ、またひとつとくぐりながら進むたびに、心の中のざわつきがすっと鎮まっていくのを感じました。

    鳥居の先に広がる日本海は、深い青と白い波のコントラストが鮮やかで、どこまでも清らか。

    空の青と海の青、そして鳥居の赤。

    その三色が、自然の中で絶妙に溶け合い、旅人の記憶に深く焼きついていくのです。

    眼下に広がる海を見下ろしながら、しばらく風に吹かれていると、心の奥に溜まっていた澱のようなものが、すこしずつ流れていくような気がしました。

    次に訪れたのは、角島大橋。

    遠くからでもその存在感は圧倒的で、まるで空と海を結ぶ一本の線のように、凛と延びるその姿は、ただの橋ではなく「風景そのもの」でした。

    エメラルドグリーンの海を左右に従えながら、車でゆっくりと走るその時間は、まさに夢のよう。

    時折、橋の上で車を停め、歩いて風を感じながら眺める海の景色は、言葉では言い表せないほどの美しさがありました。

    角島のビーチでは、夕暮れの光が海面にやわらかく反射していました。

    潮騒の音が心地よく、すぐそばで子どもたちの笑い声が聞こえてくる――そんな穏やかな時間の中に身を置いていると、「旅の本質って、こういう瞬間なのかもしれない」とふと思うのです。観光地を巡るのではなく、“風景に溶け込む”ような旅。

    それこそが、山口が与えてくれる体験のひとつなのでしょう。

    旅の締めくくりは、下関。

    港町ならではの活気が漂う唐戸市場は、早朝から地元の人と観光客が入り混じり、威勢のいい掛け声が飛び交っていました。

    市場の一角で買った握り寿司を手に、海沿いのベンチに腰掛けて頬張ると、舌の上でとろけるような新鮮さに、思わず目を閉じました。

    その味わいは、ただの“食”を超え、“土地を感じる”という体験へと昇華していたのです。

    そして、下関といえば忘れてはならないのが「ふぐ」。

    夜は地元の小料理屋でてっさ(ふぐ刺し)や唐揚げ、ちり鍋に舌鼓を打ちました。

    一見淡白に思えるその白身には、噛むほどにじんわりと広がる滋味深い味わいがあり、身体の芯まで“ごちそう”の温もりが染み渡っていくようでした。

    店のおかみさんが、「山口のふぐは、命がけで育てられてるんやから、味も真剣そのものよ」と笑いながら語ってくれたのも、心に残るひとときでした。

    夜、下関の海沿いを歩くと、対岸には九州・門司の街明かりがぽつぽつと灯っていました。

    海の向こうにも続く人々の暮らし、その灯りを眺めながら、私はふと「旅は終わらないものなのだ」と感じました。

    目の前の海、背中に背負った風景、そして心に残った人の言葉。

    すべてが、旅の続きへと優しく背中を押してくれるようでした。

    山口という土地は、声高に何かを主張することはありません。

    でも、その静かなまなざしと、時の深みに抱かれた風景、人のぬくもりは、確かに旅人の心に何かを残してくれるのです。

    語りすぎず、けれども確かにそこにある“物語”――山口の旅は、そのひとつひとつが、まるで詩の一節のように、心の奥に静かに灯り続けています。


    【5】岡山:晴れの国に出会う、光と緑のまほろば

    本州の西側、中国地方の一角に位置する岡山県。

    瀬戸内海に面し、温暖な気候に恵まれたこの地は、「晴れの国」という愛称でも知られています。

    訪れたのは、春の陽光がやわらかく差し込む頃。

    空は透き通るように青く、軽やかな風が頬をなでていきました。

    そんな始まりから、もうこの旅は優しさに満ちていると確信できたのです。

    旅の始まりに選んだのは、岡山の象徴とも言える「後楽園」。

    日本三名園の一つに数えられるこの庭園は、元禄の時代、池田綱政によって築かれました。

    園内に一歩足を踏み入れた瞬間、ふわりと時間の流れが変わったような感覚に包まれます。

    喧騒が遠のき、ただ風と葉擦れの音、そして水面に広がる光の反射がそこにある。

    庭園をゆるやかに歩いていくと、鯉が泳ぐ池のきらめきや、野点傘の下でゆったりとお茶をたしなむ人々の姿が目に映ります。

    広い芝生の丘に寝転んで空を見上げると、季節の移ろいまでもが空気に混ざって感じられるようでした。

    自然と人工が見事に調和したこの空間には、静かな誇りが息づいています。

    ある場所では、白砂が敷き詰められた小道の端に腰を下ろし、じっと池を眺めました。

    水面に映る岡山城の天守が、そっと風に揺れながら波打っているのが美しく、なんだか夢の中を歩いているようでした。

    後楽園をあとにして、川を挟んで向かいにある「岡山城」へ。

    漆黒の外壁をもつ天守閣は「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、その威風堂々たる姿はまさに“静の美”。

    白亜の姫路城とは対照的に、岡山城はしっとりとした風格をまとい、見る者に深い余韻を残します。

    城内では、岡山藩の歴史や城主・池田家にまつわる資料が展示されており、往時の城下町のにぎわいを想像しながら歩くのが楽しいひととき。

    展望台から見下ろす景色は圧巻で、後楽園の緑と街並み、そしてゆったりと流れる旭川がひとつの絵巻物のように広がっていました。

    列車で西へ移動し、次に向かったのは「倉敷美観地区」。

    この町には、まるで映画のセットのような情緒があり、歩くだけで心がときめく場所です。

    白壁の蔵屋敷と黒瓦、なまこ壁、柳の緑が川面に揺れて、どの角度から見ても絵になる風景。

    川をゆったりと進む遊覧船には、浴衣姿のカップルや家族連れ。

    船頭さんの唄う倉敷節が川に響き、時代を超えた物語のようなひとときを演出してくれます。

    通り沿いにはレトロなカフェや地元作家のクラフト店が並び、立ち寄るたびに新しい出会いがある。

    まるで“歩く美術館”のような町でした。

    その中心にある「大原美術館」では、西洋絵画と日本美術、工芸が共存する静謐な空間に身を置きました。

    クロード・モネの《睡蓮》の前では、ふと時間が止まったような気さえしました。

    絵画の筆遣いに見とれながら、自分の中の「静けさ」に触れることができた気がします。

    岡山のもう一つの魅力、それはなんといっても“果物王国”ということ。

    桃、ぶどう、マスカット……そのどれもが、陽の光をいっぱいに浴びて育った、まさに自然からの贈り物です。

    旅の途中、赤磐市の果樹園に立ち寄る機会に恵まれました。

    家族経営の小さな農園で、採れたての「清水白桃」をその場でいただくと、果汁が滴るほどにみずみずしく、口に入れた瞬間、まるで果実そのものが光になって溶けていくような味わい。

    農園のご主人が笑いながら、「これはうちの娘より手がかかるけど、味は保証するよ」と語ってくれたのも、忘れられない思い出です。

    また、カフェで味わった“ぶどうのフルーツサンド”も絶品でした。

    もちもちのパンの中に、大粒のマスカット・オブ・アレキサンドリアがぎっしりと詰まっていて、甘さと爽やかさが口の中で弾けるよう。

    見た目も美しく、思わず写真を何枚も撮ってしまいました。

    旅の終わりには、倉敷の裏路地にひっそりと佇む古民家カフェで、店主の女性とゆっくりお話をする時間を持てました。

    岡山生まれ、岡山育ちの彼女は、「ここはね、目立ちはせんけど、住んでみると良さが沁みてくるんよ」と柔らかく語ります。

    「観光地って、どこも“見せる場所”になりがちやけど、倉敷は“寄り添う場所”であってほしいんよね」と続けたその言葉に、私は深くうなずきました。

    たしかにこの旅路では、派手な驚きや刺激こそなかったけれど、心の底から「ああ、来てよかった」と思える瞬間ばかりが連なっていたのです。

    岡山という土地は、見た目の華やかさや賑わいではなく、じっくりと五感に染み込んでくるような“静かな豊かさ”をもって旅人を迎えてくれます。

    清らかな水の流れ、手入れの行き届いた庭園、美しい街並み、優しい人々、そして甘やかな果実の香り。

    この地を離れるとき、心の中にはひとつの風景が浮かんでいました。倉敷の川辺で見た柳の葉の揺らめきと、やわらかい陽の光。

    それはまるで、旅の余韻そのもののようでした。

    晴れの国・岡山。

    ここには、“静かなる幸福”という名の宝物が、そっと隠れているのです。


    おわりに──風景の記憶、心の奥にそっと灯る旅

    中国地方をめぐるこの旅は、まるで一枚の織物を少しずつ織りあげるような時間でした。

    糸のように細やかな出会いをひとつずつ結びながら、気づけば心の中には色とりどりの風景が幾重にも重なっていたのです。

    鳥取では、風が砂丘に描いた曲線が、まるで詩の一節のように胸に残りました。

    裸足で踏みしめた砂の感触、ラクダのゆったりとした足取り、そして砂の上に響いた子どもたちの笑い声――どれもが風景の一部となり、時間の層に静かに刻まれていきました。

    島根では、神話が今も息づく大地に、心がほどけるような感覚を覚えました。

    出雲大社の大しめ縄の下で手を合わせたとき、旅の疲れも、人ごみの喧騒も、すべてが澄んだ空気に溶けていくような気がしたのです。

    石見銀山の静かな坑道に響いた足音は、遥か昔の労働者たちの想いをそっと伝えているようでした。

    広島では、平和の尊さに胸が締めつけられました。

    原爆ドームの前に立ったあの瞬間、言葉にならない感情が押し寄せ、目頭が熱くなったことを今も覚えています。

    けれど、同時に感じたのは「再生」の強さ。

    宮島で見た朱塗りの大鳥居が夕日に照らされて輝く光景は、希望の象徴のようでした。

    山口では、自然と歴史が静かに語りかけてくる時間に身を委ねました。

    瑠璃光寺の五重塔、元乃隅神社の鳥居、角島大橋の向こうに広がる碧い世界。

    どれもが、声をあげずとも力強く「ここに生きている」と伝えてくるようで、その静かな存在感に心を奪われました。

    そして岡山。

    後楽園の緑に抱かれ、倉敷の川辺を歩き、果実の甘みを味わい、人の優しさに触れたこの地は、まるで旅の仕上げを告げる一筆のように、穏やかでいて確かな余韻を残してくれました。

    思えばこの旅で出会った風景は、どれも「静かなる豊かさ」にあふれていました。

    けして華美ではなく、派手でもない。

    けれど、だからこそ日常の延長線上で、ふと心に寄り添ってくれるような温もりがあるのです。

    静かな海、揺れる柳、古い街並み、あたたかな声――それらが、心の奥でそっと灯り続けるのです。

    旅を終えて今、私は中国地方という場所が「風景の宝箱」であったことに気づきます。

    目に見える景色だけでなく、その背後にある物語や歴史、人々の暮らしの重なりが、そっと旅人に語りかけてくる。

    そしてその声は、帰路に立ったあとも、ふとした瞬間に蘇り、微笑みをくれるのです。

    この旅で出会ったすべての場所、すべての人に、心からの感謝を。

    また、いつか――風の匂いが恋しくなったら、あの地を訪ねよう。

    中国地方は、きっとそのときも、静かに優しく迎えてくれるでしょう。

  • 風と歴史が交差する場所へ ― 中国地方 五彩紀行①

    【はじめに】

    西日本のほぼ中央に広がる中国地方。

    鳥取、島根、岡山、広島、山口――この五県から成る地には、にわかに語り尽くせぬほどの魅力が詰まっています。

    海があり、山があり、神話が息づき、歴史が今もなおそっと脈打ち、そしてそこに暮らす人々のあたたかな暮らしがある。

    その風景に包まれるたび、心の奥底から「ただいま」と呟きたくなるような、不思議な懐かしさが込み上げてきます。

    今回の旅は、そんな中国地方を、少しゆっくりと、少し丁寧に巡ってみたいと思ったところから始まりました。

    移動手段も、早さや効率を重視するのではなく、敢えて時間をかけて、その土地の空気を身体いっぱいに取り込むことを大切にしました。

    特急列車からローカル線へ。時にはバスや渡し船、時には自転車や自分の足で。

    旅の速度がゆっくりになるほどに、目に映る風景の輪郭が、よりやさしく、より鮮やかに感じられるのです。

    道すがら、駅前のベンチで地元の方と交わした短い会話や、早朝の市場で見かけた魚屋の威勢の良い声、雨上がりの神社で聞いたしっとりとした木々の香り。

    そうした小さな出来事の一つひとつが、まるで風のように私の旅路にそっと吹き込み、気づけば心の奥にまで染み渡っていました。

    中国地方の旅には、大都市のような華やかさやにぎやかさは少ないかもしれません。

    でも、その代わりに、人や自然が持っている“素のままの美しさ”が、息を潜めながらも確かにそこに存在していて、ふとした瞬間にこちらの心を優しく包んでくれます。

    この旅では、まず鳥取の砂丘で見た風と光の揺らぎから始まり、島根では古の神々が宿る場所で静かな祈りに触れました。

    岡山の町では、桃太郎伝説の残る中で人情に出会い、広島では過去と未来が交差する記憶の場に立ち尽くし、そして山口では、旅の終わりにふさわしいほどの、美しい海と夕陽に見送られました。

    どの地にも、それぞれ異なる息づかいがあり、そこでしか得られない体験がありました。

    そして何よりも、この旅を通じて感じたのは、「その土地の風景を見る」ということが、単に目で眺めるだけではなく、「心を通わせる」という行為でもあるのだということです。

    風に揺れる草の音、ふいに香る花の匂い、見知らぬ人との挨拶。そのすべてが、旅人にしか出会えないかけがえのない瞬間です。

    これから綴っていくのは、そんな小さな出会いと発見の積み重ね。

    きっとあなたの中にも、ふと重なる景色があるかもしれません。

    五つの県が織りなす、五つの色彩。

    どうぞ、その風景に心を預けながら、ゆっくりと読み進めていただけたら幸いです。


    【1】鳥取:風と砂の詩が聞こえる場所

    山陰の玄関口、鳥取。

    全国で最も人口の少ない県と言われながらも、この地には、言葉にならないほどの“濃密な静けさ”が満ちています。

    人の手が届きすぎないからこそ残るもの、風が語りかけてくるような景色、人の声がちゃんと心に届く距離感——そんな旅が、ここにはありました。

    旅の始まりは鳥取駅。

    朝のまだ静かなホームに降り立つと、凛とした空気が肌に触れ、背筋が自然と伸びるような感覚に包まれました。

    駅前の通りには大きなビルも喧騒もなく、そこにはどこか昔懐かしい、ゆったりとした時間の流れがありました。

    列車の音、信号の切り替わる音、それらが妙に心地よく響いてきます。

    タクシーに乗り込み「砂丘までお願いします」と伝えると、年配の運転手さんがにっこりと「今日は風があるから、きっと砂が踊っとるで」と一言。

    その言葉が妙に印象に残り、私は胸を少し高鳴らせながら窓の外を眺めました。

    街並みが次第に田園へ、そして草地から広がる砂丘の前触れへと移ろっていく景色に、旅の実感がじわりと染み込んでいきます。

    そして見えてきた、鳥取砂丘。まるで海のように広がる一面の砂。

    誰もが思わず息を呑むほどのスケールです。

    足を踏み入れると、サラサラとした細やかな粒が靴の隙間から入り込み、次第にその砂の柔らかさに身も心も解かれていくような感覚に。

    陽射しが作る影と風が描く波模様は、まるで大地が自ら詩を紡いでいるかのようで、私はしばらく無言でその光景を眺めていました。

    「馬の背」と呼ばれる砂丘の頂に登ると、そこには青い海がどこまでも広がっていました。

    風が強く、髪が頬を打ち、コートの裾がばたつきます。それでも足を止めたくなるほど、美しい風景。

    日本海の白波が、光をきらきらと反射させながら押し寄せてくる様子は、どこか心の深い部分を揺さぶってくるようでした。

    隣で写真を撮っていたカップルが「風、すごいけど気持ちいいね」と笑い合っていて、その何気ない一言すら、この風景を物語る一節のように感じられました。

    砂の美術館にも足を運びました。

    展示テーマはその年ごとに異なり、今回は「南米」でした。

    マチュピチュ、インカの神殿、サンバを踊る人々……すべてが砂で形作られているとは信じがたいほどの緻密さと迫力。

    館内を歩いていると、ふと「この砂も、あの砂丘の一部なんだよな」と思い、不思議な感動に包まれました。

    儚くも力強く、ただの“粒”がここまでの芸術になる。

    その対比が、旅人の心に深く刻まれます。

    午後は「白兎神社」へ。

    神話「因幡の白うさぎ」の舞台として知られるこの場所は、小さな神社でありながら、訪れた人の心に優しく寄り添うような、あたたかさがありました。

    参道の両脇には小さなうさぎの石像が並び、その一つひとつに人々が願いを込めた跡が見て取れました。

    境内で出会った親子が、うさぎの像に小さな手を合わせて「また元気に来ようね」と囁く声を聞いて、胸が少し熱くなりました。

    旅先でふと目にする、こんな小さな祈りの場面ほど、忘れがたいものはないのかもしれません。

    夜は鳥取駅近くの小さな居酒屋へ。

    灯りのともる暖簾をくぐると、木のぬくもりに包まれたカウンター席が迎えてくれました。

    地元の松葉ガニ、白イカの刺身、砂丘らっきょうの浅漬け。

    どれも素朴ながら、素材の味が活きていて、心もお腹もじんわりと満たされていきます。

    店のご主人が「このカニは、今朝、賀露港で揚がったばっかり」と笑顔で教えてくれたとき、その一言が旅の味を何倍にも豊かにしてくれるのだと、改めて感じました。

    帰り道、空を見上げると、びっくりするほどの星空。

    都会では見えないような無数の星たちが、音もなく瞬いています。

    こんなにもたくさんの星が、毎晩空に浮かんでいたのかと、しばらくその場から動けませんでした。

    冷たい風に吹かれながら、ただ立ち尽くしていたあの時間は、今でも私の中で鮮やかに残っています。

    鳥取は、静かな場所です。

    でもその静けさは、決して寂しさではなく、むしろ人の心をあたたかく包むような優しさに満ちています。

    喧騒のない町並み、ゆっくりと進む時間、やわらかな人々の笑顔。

    きっとまた、ふとした瞬間にこの風景を思い出すだろうな——そう確信しながら、私は次の目的地・島根へと向かう列車に乗り込みました。


    【2】島根:神話と暮らしが交わるところ

    鳥取から西へと向かう列車の車窓には、ゆるやかな丘と田園風景が広がり、時折、ちらりと見える日本海がその旅の輪郭を淡く彩ってくれます。

    空はどこまでも広く、雲はまるで浮かんでいるというよりも、空に溶け込んでいるかのよう。

    そうして、静かな時間を経て辿り着いたのが、島根県。

    出雲の国として名高いこの地には、どこか現実とは少し違った“時間の層”が流れているように感じられました。

    まず向かったのは、やはり「出雲大社」。

    日本最古級の神社のひとつであり、縁結びの神様としても知られる大国主大神を祀る場所です。

    長い参道を歩くたびに、砂利の音が心の内を整えてくれるようで、不思議と姿勢も正されていくのを感じました。

    境内に入ると、圧倒的な存在感を放つ御本殿の大屋根。

    その前で自然と手を合わせた瞬間、目には見えないはずの「何か」に、そっと包まれたような感覚がありました。

    出雲大社での参拝は、通常の神社とは異なり「二礼四拍手一礼」。

    その拍手の音が、風に乗って木立の間へ吸い込まれていくようでした。

    多くの人が訪れていながらも、この場所には決して喧騒はなく、むしろ人の祈りが互いに溶け合うことで、静けさが深まっていくような、そんな空気がありました。

    神楽殿にかかる大注連縄(おおしめなわ)は、まるで空から吊るされた太い命綱のようにも見え、見上げているだけで心が引き締まります。

    そこに流れているのは、きっと神話ではなく、確かに“今ここ”にある人々の信仰の重なりなのでしょう。

    神社の外に出ると、出雲そばのお店が並ぶ通りが現れました。

    三段重ねの割子そばに、薬味とつゆをかけながらいただくこの郷土料理は、見た目の可愛らしさとは裏腹に、しっかりとした風味とそばの香りに満ちていて、旅の疲れもすっとほぐれていくようでした。

    隣の席にいた地元のおばあさんが「出雲は、食べ物も、人の縁も、どれも“よう噛みしめる”ところなんよ」と話しかけてくださり、その言葉が妙に心に残ったものです。

    午後には、「日御碕灯台」へ。

    岬に立つ真っ白な灯台は、日本一の高さを誇り、海から吹き上げる風と、荒々しくも美しい岩場の景色に、思わず時間を忘れました。

    目の前に広がるのは、神々の歩いたという出雲の海。

    光の差し込み方が一瞬一瞬変わるたびに、同じ海でも全く違う表情を見せてくれます。

    眼下に広がる碧い海と、打ち寄せる白波、その向こうに霞む水平線を見ていると、「人間の営みって、ほんのひとひらなんだな」と、なんとも言えない気持ちになりました。

    そしてもう一つ、どうしても訪れたかった場所がありました。

    それは「石見銀山」。

    かつて世界中に名を轟かせたこの鉱山は、今ではその役目を終え、静かな山里として静かに息づいています。

    世界遺産にも登録されているこの地は、ただの観光地ではありません。

    石畳の坂道、古い町屋、手入れの行き届いた庭先――そこには、時を超えて続く暮らしの温度があります。

    「銀山公園」で出会った案内ボランティアの男性が、「この町はな、昔から“儲けた金より、残した縁”が大事って言われとったんよ」と笑いながら教えてくれました。

    その言葉が、出雲大社で感じた「つながり」ともどこか通じ合っていて、私は島根という土地の奥深さに静かに感動を覚えました。

    日が暮れかけた頃、「宍道湖(しんじこ)」のほとりへ。

    夕日が湖面をゆっくり染めていくさまは、あまりに静かで、あまりに美しくて、ただただ見惚れてしまいました。

    湖畔には釣りをする親子、ベンチに並ぶ老夫婦、そしてひとりぼんやりと佇む旅人――それぞれが自分の“静かな時間”を過ごしていて、湖はそのすべてを、ただやさしく受け入れてくれていました。

    島根の旅は、派手な出来事やきらびやかな景色よりも、心の奥で確かに灯る“言葉にならない想い”が積み重なっていくような時間でした。

    祈ること、待つこと、つながること。

    島根には、それらを何気ない日常の中に大切に残している“静かな強さ”があるように思います。

    次は、山の都・広島へ。

    列車がゆっくりと西へと進む中、私は出雲の海と宍道湖の静けさを、心の奥にそっとしまいこみました。


    【3】広島:祈りと再生が交差する都市

    列車は島根のしっとりとした風景を後にし、再び西へ。

    中国山地を越えた先、広島の街が徐々にその姿を現しました。

    駅に降り立った瞬間、ふわりと漂ってきたのは、お好み焼きの香ばしい匂い。そして、にぎやかな電車の音と人々の声。

    そこには「日常」の手触りがしっかりと根を張っていて、どこか懐かしさすら覚えます。

    広島といえば、やはりまず訪れるべきは「平和記念公園」。

    原爆ドームの前に立ったとき、その静けさは胸にずしりと響きました。

    骨組みだけが残された建物の輪郭は、言葉を越えた重みを持ち、ただ黙ってそこに立ち尽くすことしかできませんでした。

    園内を歩くと、子どもたちが折った千羽鶴が色とりどりに風に揺れ、広島の空を優しく彩っていました。

    慰霊碑の前でそっと目を閉じたとき、都市としての再生と、個人の祈りが交差する場所に自分が立っているのだと、深く実感したのです。

    原爆資料館では、焼け焦げた衣服や瓦、無数の手紙や写真が展示されていて、一歩一歩が胸に迫ってきました。

    戦争というものの愚かさと、人間の心の深さ――それらを目の当たりにしながら、「記憶すること」の大切さをひしひしと感じました。

    けれど、広島は「悲しみ」だけの街ではありません。

    平和記念公園を後にして、歩いて向かった先は「本通り商店街」。

    活気あるアーケードには、学生たちの笑い声や、買い物を楽しむ人々の姿。

    人々が普通に笑い、暮らしているこの光景こそが、広島という街の“答え”なのだと思えました。

    そして、広島名物といえば“お好み焼き”。

    地元の人にすすめられて、小さな路地裏にある老舗の一軒へ。

    鉄板の前に座り、焼き上がる音を聞きながらビールを一杯。

    キャベツたっぷりの層にそばが敷かれ、甘辛いソースがじゅうっと香ばしく焼けたその味は、どこまでも温かく、そして懐かしい。

    隣の常連さんが「広島焼きって言わんといてや、広島では“お好み焼き”やけぇ」と笑って話しかけてくれたのも、土地の人の気質を感じる素敵な一幕でした。

    次の日は、世界遺産「宮島」へ。

    フェリーに揺られながら見えてきた厳島神社の大鳥居は、思わず息をのむほどの美しさ。

    ちょうど潮が引いていた時間帯だったので、歩いて鳥居の足元まで行くことができました。

    海と空の境界が淡く溶ける中、そっと手を合わせていると、旅に出たことそのものに感謝したくなるような、不思議な心持ちに包まれました。

    宮島の町並みもまた風情があり、木造の建物が並ぶ通りには、もみじ饅頭や焼き牡蠣のお店が立ち並んでいます。

    熱々の牡蠣を頬張ったときのジューシーな海の旨味は、思わず声が漏れるほど。

    鹿がのんびり歩く姿を眺めながら、商店街をぶらりと歩いていると、時間がゆるやかに流れていることに気づかされました。

    その後、宮島ロープウェーに乗って弥山(みせん)へ。

    標高535メートルの山頂から見下ろす瀬戸内海の多島美は、まるで墨絵のような繊細さと奥行きを持っていて、しばし言葉を失うほどの絶景でした。

    空気は澄み、鳥の声だけが響く世界。

    自然と静かに向き合うことで、自分自身の“芯”のようなものを探しているような、そんな気持ちになったのです。

    広島は、確かに過去に深い傷を負った街です。

    でもそれ以上に、前を向いて「生きること」にまっすぐな場所でもあります。

    人々の笑顔の中に、料理の湯気の中に、復興の時間が静かに、確かに宿っている――そんなことを、旅を通して学んだ気がします。

    次なる目的地は、山口。

    列車に揺られながら、瀬戸内の光が車窓に反射するたびに、広島という街が胸の中で少しずつ、でも確かに、私の“人生の風景”になっていくのを感じていました。

  • 「六彩の関西旅路 〜古都と現代が織りなす、心ほどける時間」②

    【4】和歌山:祈りと潮風が交わる場所

    南へと電車を乗り継ぎ、トンネルをいくつも抜けるたびに、車窓の風景が少しずつ変わっていくのが感じられました。

    ビルの街並みが次第に姿を消し、代わりに山々の緑と、のびやかに広がる空と、どこまでも続く水平線が視界に入り始めます。

    都市の喧騒から少し離れたこの地に降り立った瞬間、ふわりと潮の香りと山の空気が鼻をくすぐり、心の奥底に張っていた小さな緊張が、そっとほどけていくのを感じました。

    和歌山――それは、静けさと祈り、そして自然のやさしさに包まれた場所でした。

    この旅で最初に足を運んだのは、言わずと知れた高野山。

    標高およそ800メートル、険しい山道を抜けた先に広がるその地は、まさに“天空の宗教都市”とも呼ばれる聖地。

    弘法大師・空海が開いたこの場所には、1200年以上の時を経てもなお、祈りの気配が静かに息づいています。

    冷んやりと澄んだ空気、杉木立のざわめき、どこからともなく聞こえる読経の声――そのすべてが心にしみ入り、言葉を交わさずとも深い敬意と安らぎが満ちていくのを感じました。

    金剛峯寺では、僧侶の方の丁寧な説明を聞きながら、畳の広間を静かに歩きました。

    手入れの行き届いた庭、障子越しに差し込む柔らかな陽光、仏間に満ちる静謐な空気――どれをとっても、この地に流れる時間はどこか人里離れた次元にあるようで、心が自然と凪いでいきます。

    現代社会の喧騒とはまるで異なる時間の流れ。

    その中でふと立ち止まり、自分という存在の輪郭が、少しだけくっきりと見えたような気がしました。

    奥の院へと続く参道は、両側に無数の石灯籠と供養塔が並び、まるで祈りの回廊のよう。

    苔に覆われた石畳、湿った土の匂い、すれ違う参拝者の足音すらも優しく響くその空間は、言葉を発することをためらうほどの静けさに包まれていました。

    歴史に名を刻んだ武将や偉人たちの墓所が並ぶ一角では、その生涯に想いを馳せながら、ひとつひとつ手を合わせて歩きました。

    千年の祈りが積み重なった場所――そこには、人の儚さと力強さが共存しているようでした。

    その夜は、宿坊に一泊。

    木造の建物に足を踏み入れると、畳の香りと蝋燭の明かりが迎えてくれました。

    出されるのは、滋味深い精進料理。

    旬の野菜や山菜を使った数々の皿には、一つひとつに繊細な味わいと季節の移ろいが込められていて、身体の内側から穏やかに整っていくような感覚がありました。

    窓の外では風が杉の葉を揺らし、遠くで読経の声が響いている――そんな夜に、ふと「旅をしている」という実感が身体の奥底から湧き上がってきたのです。

    早朝、まだ空が淡い水色に染まり始めた頃、僧侶とともに座禅を組みました。

    静まり返った本堂の中で、呼吸のひとつひとつに意識を向けていくと、雑念が一枚ずつ剥がれていくような不思議な感覚。

    和歌山での時間は、ただ見て楽しむだけではなく、自分自身と向き合う“内面の旅”でもあったのです。

    そして翌日、再び列車に揺られ、南へ。

    山々の稜線がやがて遠のき、視界がひらけたかと思うと、突如として現れたのは圧倒的な太平洋の青でした。

    まばゆい陽光が海面を照らし、波が穏やかに打ち寄せる光景に、思わず窓の外に顔を近づけてしまいます。

    向かった先は、関西屈指のリゾート地白浜。

    白い砂浜と透き通るような海のコントラストは、まさに南国の楽園そのものです。

    日が傾く頃、訪れたのは円月島。

    小さな無人島にぽっかりと空いた円形の穴に夕陽がすっぽりと収まる瞬間、思わず息を飲みました。

    波の音とともに染まりゆく空と海。

    その情景は、言葉にするにはあまりに美しく、ただ静かに見届けることしかできませんでした。

    道の駅では、名産の紀州南高梅や有田みかんが並んでおり、その場で購入して味わってみると、想像以上の美味しさに驚きました。

    梅干しは、しょっぱいだけではなくまろやかさと旨みがあり、みかんは口に入れた瞬間に果汁が弾けて、旅の疲れを吹き飛ばしてくれるほどの爽やかさ。

    お土産を選んでいるときに、「これはうちのお父さんが畑で育てたやつやで」と笑いながら話しかけてくれた店員さんの言葉に、和歌山の人々のあたたかさが滲んでいました。

    和歌山の旅は、祈りの中にある静けさと、海辺のまぶしさが織りなす、“癒し”と“生命力”の混ざり合う時間でした。

    喧騒とは無縁の、けれど心にじんわり染み入るようなこの土地の魅力は、きっと一度来たら忘れられない。

    そんな想いを胸に、私はまた次の目的地へと足を進めたのでした。


    【5】滋賀:水と歴史が語る風景

    関西の中心から少し東へ。

    琵琶湖の大きな水面が見えてきたとき、まるで海のようなスケールに思わず息をのみました。

    滋賀県は、その琵琶湖を中心に、歴史と自然が穏やかに寄り添う場所。

    派手さはないけれど、訪れる者の心にじんわりと沁み込むような、静かな魅力に満ちています。

    まず私が足を運んだのは、近江八幡の町並み。

    石畳の小道、白壁の蔵、そして静かに流れる八幡堀――まるで時代劇のワンシーンに入り込んだかのような、趣ある景色が続きます。

    水郷巡りの船に乗ってゆったりと堀を進むと、水面に映る柳の緑が風に揺れて、その音さえも心地よく感じられました。

    船頭さんの語り口はどこかのんびりしていて、「ここらは昔、商人の町やったんや」と教えてくれたその声に、今も息づく歴史の深さを感じました。

    次に向かったのは、日本で最も古い仏教寺院のひとつとして知られる比叡山延暦寺。

    滋賀県と京都府の境に広がる比叡山の山中にあり、標高848メートルからは、眼下に琵琶湖がゆったりと広がっています。

    参道を歩くうちに、木々の香りと霧の気配に包まれ、まるで山そのものが祈りの場であるかのように感じられました。

    東塔・西塔・横川という三塔のエリアをめぐりながら、千年を超える修行の歴史に思いを馳せるひとときは、どこか身が引き締まるようでもありました。

    その後、琵琶湖の東側へと足をのばし、彦根城を訪れました。

    現存12天守のひとつであり、国宝にも指定されているこの城は、堂々とした風格を持ちながらも、どこか親しみやすさも感じさせます。

    白壁と黒の下見板張りのコントラストが美しく、天守閣に登ると、眼下には琵琶湖と城下町の風景が広がり、かつてこの場所から国を見つめていた人々の視点が、少しだけわかるような気がしました。

    そして、滋賀といえば忘れてはならないのが近江牛。

    地元の食事処で出された鉄板焼きは、口に運ぶとやわらかくとろけ、噛むたびに肉の旨味がじゅわっと広がります。

    「これが近江の味か」と、ただただ頷きながら箸を進めるばかりでした。

    地元のお母さんが作った赤こんにゃくの小鉢も添えられていて、「ちょっとピリッとしてて、これがクセになるんよ」と笑うその声が、今でも耳に残っています。

    また、琵琶湖の畔にある小さな港町、長浜にも立ち寄りました。

    黒壁スクエアと呼ばれるガラス工芸の街並みは、レトロな建物が並ぶ中に、現代的なセンスも感じられる不思議な空間。

    歩くだけで楽しいそのエリアでは、手作りのガラス細工を眺めながら、ゆっくりとした時間を過ごしました。

    小さなカフェに入ると、「よう来てくれはったな」と温かく迎え入れてくれるおばあちゃんの笑顔に、ほっと心がほぐれる瞬間がありました。

    夕方、琵琶湖のほとりに腰を下ろし、水面に映る夕陽をぼんやりと眺めていると、風がすうっと頬をなでていきました。

    その風はどこか、長い年月の記憶を運んでいるようで、過去と今とを繋いでくれるような気がしたのです。

    滋賀の魅力は、目立つ派手さではなく、静かな風景の中にそっと宿っています。

    琵琶湖の広がり、歴史ある町並み、人々の飾らない優しさ――そのすべてが、訪れる者にゆっくりと語りかけてくるようでした。

    心に優しく寄り添う、そんな旅ができる土地。それが、滋賀という場所でした。


    【6】兵庫:海と山、街と湯が織りなす万華鏡のような時間

    関西を旅するなかで、兵庫はひときわ多様な顔を見せてくれる場所でした。

    神戸の港町の香り、姫路の白亜の城、六甲山の静寂、そして城崎温泉のぬくもり。

    都会の煌びやかさも、山里のやさしさも、すべてを抱え込んでなお調和している――兵庫という地は、そんな懐の深さを持ったところです。

    旅の始まりは神戸から。

    異国情緒あふれる旧居留地や、南京町の中華街は、歩いているだけで世界の風が吹いてくるような気分になります。

    海沿いを歩けば、モザイクの観覧車が色鮮やかに回り、メリケンパークでは港の風にスカートがふわりと揺れました。港町という言葉がこれほど似合う場所は、そう多くありません。

    夜は、神戸牛のステーキを味わいに地元の鉄板焼き店へ。目の前で焼かれる肉はまるで芸術。

    じゅう…という音に食欲を刺激され、焼き上がったひと切れを口に運べば、香ばしさと柔らかさが同時に広がり、思わず目を閉じて味わいました。

    店主が「よう来てくれましたな」と差し出してくれた赤ワインとの相性も抜群で、神戸の夜がゆったりと体に染み込んでいくようでした。

    そして次に向かったのは、世界遺産・姫路城。

    白鷺城とも称されるその姿は、青空にすっと浮かぶように凛としており、何百年も人々を見守ってきた威厳をまとっていました。

    大手門から入って天守まで登る道のりはまさに「攻めにくさ」を実感する構造で、昔の知恵と工夫に驚かされます。

    城の上から望む姫路の街と山並みの景色は、今なお城を中心に人々が暮らす営みの重なりを感じさせました。

    そして旅の終盤、私は北へと向かい、城崎温泉を訪れました。

    外湯巡りで知られるこの地は、浴衣姿でそぞろ歩く旅人が行き交い、川沿いの柳が風に揺れる様子は、どこか夢の中の風景のよう。

    七つある外湯のうち、三つをめぐってみましたが、それぞれに趣があり、なかでも「御所の湯」の露天風呂では、木々のささやきと湯の音に心が溶けていくようでした。

    地元の旅館に泊まり、蟹料理に舌鼓を打った夜。

    仲居さんが「この辺のカニは甘みが強いんですよ」と微笑んで、熱々の甲羅焼きを勧めてくれました。

    しっとりとした和室に布団を敷いて、湯上がりのぽかぽかの体で横になったとき、旅の疲れがすうっと引いていくのが分かりました。

    また、六甲山にも足をのばしました。

    ケーブルカーで登った先、展望台から望む神戸の街並みと海は、まさに宝石のよう。

    夜景は「1000万ドルの夜景」とも称され、その名に恥じぬきらめきでした。

    風が頬をなで、遠く大阪の光までも見渡せるその眺めに、しばし言葉を失って立ち尽くしました。

    兵庫という場所は、ひとつの県でありながら、いくつもの文化と表情を持っています。

    港町の華やかさ、山の静けさ、歴史の重厚さ、そして温泉地のぬくもり――そのどれもが個性的でありながら、どこかでゆるやかにつながっている。

    その豊かさこそが、兵庫の魅力なのだと、旅の終わりに改めて実感しました。


    【おわりに】

    関西六府県をめぐるこの旅は、まるでひとつの長い物語のようでした。

    大阪では笑いと人情に触れ、京都では時を越えた静寂に包まれ、奈良では鹿と共に歩くようなやさしさを感じ、和歌山では祈りと海に癒され、滋賀では琵琶湖の大きさに心を洗われ、そして兵庫では多彩な文化が交差する豊かさに目を見張りました。

    それぞれの地で出会った人たちの言葉、ふとした瞬間に香った風、舌に残る郷土の味。

    どれもがかけがえのない旅の欠片となり、今も私の心の中でふわりと揺れています。

    この旅を通して感じたのは、「地域」という言葉が、単なる地理的な区分ではなく、“人と暮らしと歴史と風土の重なり”なのだということ。

    それは決して観光ガイドの写真だけでは味わえない、実際にその場を歩き、話し、迷い、そして感じることでしか得られない“旅の実感”なのだと強く思います。

    関西は、にぎやかさと静けさ、懐かしさと新しさ、格式と親しみ――あらゆるものが共存する、不思議で、だからこそ魅力あふれる場所でした。

    何度訪れても、新しい顔を見せてくれるのだろうという確信とともに、私はそっと旅のページを閉じました。

    またいつか、あの駅のホームに立ち、再び関西の風に触れる日を楽しみに。

    そう、旅は終わらない。心の中にあるその記憶が、また次の一歩を誘ってくれるのです。

  • 「六彩の関西旅路 〜古都と現代が織りなす、心ほどける時間」①

    はじめに:どこか懐かしくて、どこか新しい


    そんな言葉が、関西という土地には不思議なほどよく似合います。

    それは決して一つの色では表せない、にじむような多彩さ。

    時に凛として、時におどけて、時に物静かで、時に陽気。

    そんな関西の懐の深さに、私は旅を重ねるごとに惹かれていきました。

    今回の旅では、大阪・京都・奈良・和歌山・滋賀・兵庫という、関西を代表する六つの府県をめぐりました。

    どれも地図の上ではお隣同士。

    でも、実際に足を運んでみると、それぞれがまるで異なる気質や表情をたたえていて、「関西」という言葉の中に、いくつもの物語が流れていることに気づかされました。

    大阪では人の活気とお笑いの空気に圧倒され、京都ではひとつひとつの景色に時間の重みを感じ、奈良では鹿と仏のやさしさに包まれました。

    和歌山では祈りの道を歩き、滋賀では琵琶湖の静かなきらめきに心を映し、兵庫では異国情緒と温泉のぬくもりに癒されていきました。

    列車に揺られて車窓を眺めていると、景色の色や形がふと変わる瞬間があります。

    それはまるで、別の世界へ足を踏み入れる合図のようで。

    そのたびに私は心の中で深呼吸をし、新しい土地の空気を吸い込みました。

    そして、駅のホームでふと交わした言葉、商店街の喧騒の中で見つけた懐かしい味、旅先でふらりと入った喫茶店で読んだ本の一節。

    そういった小さな出来事が、次第に旅の輪郭を形作り、やがて「記憶」という柔らかな布で包まれていくのを感じました。

    この旅を通して思ったのは、「旅をする」というのは、ただ距離を移動することではないということ。

    心を動かす何かに触れ、知らなかった自分と出会い、少しだけ視野が広がる。

    そんな経験の積み重ねが、旅の本当の豊かさなのだと思います。

    これから綴るのは、そんな“関西六彩”の旅の記憶です。

    一枚の絵のように、あるいは一編の短編小説のように、それぞれの地が見せてくれた情景を言葉に紡いでいきます。

    どうかあなたにも、この物語の中に、懐かしい風の匂いや、心をくすぐるような出会いが重なりますように。

    そして、いつかふと「旅に出たい」と思ったとき、この関西のどこかで、その気持ちをそっと受け止めてくれる風景が見つかりますように。


    【1】大阪:にぎわいと人情が交差する街

    大阪に降り立った瞬間、空気が少しだけ熱を帯びているような、そんな気がしました。

    人の声があちらこちらから飛び交い、看板の文字はどれも賑やかで、足早に行き交う人々の中にも、どこか人懐っこい雰囲気が漂っています。

    駅の改札を抜けると、たこ焼きの香ばしい匂いや、道ばたから響く呼び込みの声、交通の喧噪が折り重なって、すでに大阪の“息づかい”がそこにありました。

    まず足を運んだのは、言わずと知れた「道頓堀」。

    グリコの看板が見える橋の上では、写真を撮る観光客と、それを横目に足早に歩く地元の人たち。

    その混じり合いこそが、大阪という街の“日常の風景”なのだと感じました。

    ネオンがきらめく川沿いの道には、昼でも夜でも人が行き交い、笑い声とシャッター音が絶えません。

    中には外国からの旅行者がグリコポーズで記念撮影していたり、修学旅行生がソフトクリーム片手に歩いていたり――それぞれの「今」が、にぎやかに重なり合って流れていきます。

    食の都・大阪では、やはり“粉もん”を味わわずには帰れません。

    たこ焼き屋の前に並ぶ行列に加わり、焼きたてを頬張ったとき、口の中に広がるとろりとした熱と、外側の香ばしさがなんとも言えず、思わず笑みがこぼれました。

    となりにいたおばちゃんが「うちの地元ではもっとソース濃いめやで」と教えてくれたのも、大阪らしい一期一会の味。

    しかもそのあと、おすすめのネギマヨトッピングを教えてくれて、もう一舟追加注文してしまったのもまた、いい思い出です。

    さらに足をのばして新世界へ。

    通天閣の足元には昭和の面影が色濃く残る街並みが広がり、串カツ屋や立ち飲み店が軒を連ねています。

    観光客に混じって、昼間から瓶ビール片手に談笑する地元のおっちゃんたちの姿が、なぜかほっとする。

    そんな場所に一人でふらりと入ってみたくなるのも、大阪という街の懐の深さなのかもしれません。

    夕方には、梅田スカイビルの空中庭園へ。

    エレベーターとエスカレーターを乗り継ぎ、空へとぐんぐん登っていくその感覚もまた、非日常のひととき。

    屋上の展望台に立てば、眼下にはキラキラと輝く都会の灯りが広がり、その先には遠く六甲の山並みや淀川の流れがゆるやかに続いていました。

    夕暮れから夜へと移りゆく空の色を眺めながら、いつしか言葉を忘れて見入っていた自分に気づきます。

    都会の喧騒がひととき遠ざかり、空と街がひとつにつながるような、不思議な静けさがそこにはありました。

    夜、ふらりと入った串カツの店では、カウンター越しに常連客と大将が冗談を言い合いながら串を揚げています。

    「ソースの二度づけは禁止やで」と書かれた札も、冗談交じりの優しさを感じさせる大阪流。

    隣の席のおじさんが「ビール頼むなら、このセットがお得やで」とさりげなく教えてくれて、知らず知らず会話が生まれるのが心地よく、気づけば地元の人たちと一緒に笑っていました。

    ホテルに帰る道すがら、アーケード街のシャッターが次々と下りていく音を聞きながら、ふと、この街の“静けさ”にも触れたような気がしました。

    昼間のエネルギーが嘘のように、夜の大阪にはまた別の顔がある――誰かの暮らしが息づく裏通りで、ゆっくりと灯りが消えていく、その瞬間こそが、旅人の心に残る情景なのかもしれません。

    大阪の魅力は、にぎやかさやグルメだけにとどまらず、その奥にある“人のぬくもり”と、“暮らしの風景”にあります。

    観光地というより、そこに根を張って生きている人々の時間に、そっと触れさせてもらった――そんな気がして、この街を後にしました。


    【2】京都:時を旅するように、静けさを歩く

    大阪の喧騒を後にして向かったのは、古都・京都。

    新快速でわずか30分の距離なのに、着いた途端に空気がすっと変わった気がしました。

    駅前の賑わいを抜け、バスに揺られて北へ進むほどに、町家の軒先に干された風鈴の音や、石畳をゆく着物姿の人々の足音が響き始め、まるで“音の粒子”が変わるような、不思議な感覚に包まれます。

    まず最初に訪れたのは、東山の清水寺。

    朝早くの澄んだ空気のなか、音羽山の斜面にそっとたたずむ本堂へと向かう坂道には、すでに旅人の列ができていました。

    けれど、参道の途中にある土産物屋の軒先から、焼きたての八ツ橋の香りが漂ってくると、誰もがどこか嬉しそうな顔になるのです。

    参道を登りきったその先に広がるのは、京都を象徴するような景色。

    清水の舞台から望む街並みは、ビルも電線も遠く霞んで、まるで江戸時代の絵巻物に迷い込んだかのようでした。

    次に向かったのは、祇園の花見小路。

    夕暮れ時、灯がともり始める頃に歩くと、格子戸の奥からはお琴の音がほのかに聞こえ、すれ違う人々の足取りまでがどこか慎ましやかに感じられます。

    偶然、路地の奥で舞妓さんとすれ違い、その優雅な佇まいに思わず息を呑みました。

    こちらが目を伏せるほどの気品が、その姿の中に自然と漂っていて、京都という街の“文化”が、こうして今も日々の中に息づいていることを実感します。

    食もまた、この街の静けさを映すようでした。夜に訪れたのは、鴨川沿いの小さな京料理の店。

    おばんざいが並ぶカウンター席に腰かけると、板前さんが静かに「お疲れさまです」と言葉を添えてくれる。

    その一言の奥にある、もてなしの心があたたかく沁みました。

    出された湯葉のお吸い物の優しい味に、ふと涙がにじみそうになるのは、旅の疲れと、心がやわらかくなる“間”が、ちょうどそこで重なるからかもしれません。

    また別の日には、嵐山を訪れました。

    渡月橋を渡る風が川面を揺らし、山々が少し色づき始めているのを眺めながら、心がすうっと静まっていくのを感じました。

    竹林の小径を歩くと、背の高い青竹が風にざわめき、頭上から光の粒が舞い降りるように差し込んできます。

    まるで自然そのものが、“時間”というものを忘れさせてくれる空間をつくっているようで、ここでは何も考えず、ただ歩いているだけで十分なのです。

    ふと立ち寄った町家の喫茶店では、年配の店主が「旅かいな?ええ季節やね」と、ほうじ茶を出してくれました。

    飾らないその言葉に、またひとつ、京都が好きになる。

    都会的で洗練された部分もあれば、どこか懐かしくて、あたたかい日常も確かにここにはあるのです。

    京都は“観光地”という枠におさまらない、生活と伝統が折り重なった“生きている町”だと、改めて感じました。

    神社仏閣の厳かな静けさだけではなく、人々の暮らしの端々に、何気ない文化が息づいている。

    石畳に残る雨の匂い、格子の隙間から漏れる灯、町家の奥に飾られた季節の花――それらすべてが、京都という街の“心”をつくっているのだと思いました。

    京都の旅を終えた夜、宿の障子越しに見上げた月が、ふんわりと雲間に浮かんでいました。

    まるで千年前の人と同じ景色を見ているような、不思議な感覚。

    時間とは、ただ流れていくものではなく、場所によっては“重なっていく”ものなのかもしれません。

    この街は、決して旅人に媚びることなく、けれどやさしく、静かに寄り添ってくれる。

    そんな京都の魅力が、旅の記憶の中に、ゆっくりと沁み込んでいきました。


    【3】奈良:時を包む、鹿と仏のまなざし

    京都から電車で南へと向かうと、やがて静かな風景が広がる奈良に辿り着きます。

    駅を降りた瞬間、空気がふっと軽くなったような気がしました。

    建物の高さが抑えられていて、空が広く、風がゆっくりと吹き抜ける――まるで街全体が深呼吸しているかのようです。

    奈良といえば、やはり「奈良公園」。

    のんびりと歩き出すと、あちらこちらから鹿たちが姿を現します。

    どこか気品があって、けれど親しみやすいその瞳に見つめられると、こちらの心もやわらかくほぐれていくようでした。

    鹿せんべいを差し出すと、ふいにぺこりと頭を下げてくれる仕草に思わず笑顔がこぼれます。

    ここでは、人と動物との距離がぐっと近く、互いに寄り添うように生きていることを実感します。

    ゆるやかな坂を登りながら向かったのは、東大寺。

    大仏殿の前に立つと、その圧倒的な大きさにしばし言葉を失いました。

    木造の巨大な本堂、その中に鎮座する盧舎那仏のまなざしは、時代を超えて今も変わらず、訪れる人々を静かに見守っているようです。

    畏敬とやすらぎとが入り混じった、不思議な心の動き。

    仏様の前に立つと、どうしてこんなにも「素直」になれるのだろう――そんな想いが胸をよぎりました。

    境内を歩いていると、苔むした石段や、瓦屋根の隙間からこぼれる陽光が美しくて、何気ない風景の中に“時間の積み重なり”を感じました。

    奈良の魅力は、この“ふつうの静けさ”の中に宿っているのかもしれません。

    春日大社にも足を運びました。

    朱塗りの回廊と苔の生えた石灯籠のコントラストが、まるで一幅の絵のように心に残ります。

    風が吹くたびに、どこからともなく鈴の音が響いてきて、その音が耳に触れるたび、自分の中の時間がひとつずつ解けていくようでした。

    昼食には、奈良町の町家を改装したカフェで、古代米を使ったおむすび膳をいただきました。

    素朴な味付けに、心も体もほっとほどけていく感覚。

    お店の方が「昔からある味やけど、最近は逆に新鮮って言われるんですよ」と笑って話してくれたその言葉が、どこか奈良らしくて印象的でした。

    日が傾く頃、静かな佇まいの中にある元興寺へ。

    石畳を歩いていくと、夕陽が赤く境内を染めて、古い瓦屋根が黄金色に輝いて見えました。

    誰もいない境内でしばらく佇んでいると、何百年も昔の人々の気配が、風の中に混じって届くような、そんな錯覚に包まれました。

    奈良の旅は、「観る旅」ではなく「感じる旅」だったように思います。

    見どころを駆け足で巡るのではなく、空気や光や音とともに“そこにいること”を味わう時間。

    静けさの中にある豊かさを、こんなにも深く感じられる場所は、そう多くありません。

    奈良を離れる日の朝、駅へ向かう道の途中で、また一頭の鹿と目が合いました。

    何も語らず、ただ静かにこちらを見ているそのまなざしが、まるで「またおいで」と言っているように感じられたのは、私の旅心が少し柔らかくなっていたからかもしれません。

  • 風土にふれ、心ほどける――愛知・岐阜・静岡・山梨、四つの旅時間

    はじめに:風土が語りかける、四つのまなざし

    日本列島のほぼ中央に位置する中部地方。

    その心臓部ともいえる愛知、岐阜、静岡、山梨の四県をめぐる今回の旅は、私にとって、まるで一枚の風景画がゆっくりとめくられていくような、そんな時間でした。

    この地域を旅するとき、その距離感に惑わされてはいけません。

    地図で見ると隣り合っているように感じるこれらの県も、実際に足を踏み入れてみれば、それぞれの土地が抱える“時間の流れ方”や“人の営み”、そして“風景の息づかい”は驚くほどに異なります。

    だからこそ、移動そのものが旅の醍醐味であり、次の場所へとたどり着くたびに、まったく新しい物語が始まるのです。

    愛知の町には、歴史と現代が見事に交錯する、どこか懐の深い風土がありました。

    名古屋の高層ビル街を歩いていても、ふとした小道の先に、老舗の味噌煮込みうどん屋や、木の香ただよう古書店がひっそりと佇んでいて、時間がふと巻き戻されるような感覚にとらわれることがあります。

    過去と現在が無理なく共存し、訪れる人を優しく受け止めてくれる、そんな“都市の包容力”がこの地にはありました。

    岐阜に足を踏み入れれば、一転して山里の静けさが心に沁みわたります。

    朝霧の中を走るローカル列車の窓から見える、瓦屋根と木造家屋が点在する風景。

    そのひとつひとつが、人々の慎ましやかな暮らしと自然への畏敬を映し出しているようでした。

    川のせせらぎや鳥の声が、都会では忘れていた“音の記憶”を呼び覚ましてくれるのです。

    そして静岡。

    海と山に包まれたその土地では、旅人はいつも自然と対話するような時間を過ごすことになります。

    潮の香りを乗せた風、駿河湾に映る夕陽、茶畑の間を縫うように続く小道。

    それらすべてが、言葉を越えて何かを語りかけてきます。

    ここでは、風景そのものが旅人を“癒す力”を持っているのだと感じました。

    最後に訪れた山梨では、山並みとぶどう畑が織りなす牧歌的な光景が、疲れた心をそっと包み込んでくれました。

    甲府盆地に広がる静かな町並み、夕暮れに染まる富士山のシルエット、そして湯けむり立ちのぼる温泉宿――どれもが、日々の慌ただしさを忘れさせてくれる、やさしい風景でした。

    この四県をめぐる旅を通して、私は「旅とは、ただ移動することではなく、“その土地の風土に身を委ねること”なのだ」とあらためて感じました。

    名所を巡るだけでは見えてこない風景――それは、喫茶店の窓越しに見た人の流れだったり、地元の方との何気ない会話だったり、田んぼのあぜ道で見上げた空の青だったりします。

    旅とは、そうしたささやかな“出会い”を、ひとつひとつ自分の心に重ねていく行為なのかもしれません。

    この記録は、そんな小さな“心の積み重ね”を書き留めたものです。

    風景が語り、人々が微笑み、土地の記憶がそっと手を差し伸べてくれる――そんな時間のなかで、私は何度も深呼吸をし、心の奥にたまっていたものがすーっと抜けていくのを感じました。

    それではこれから、愛知、岐阜、静岡、山梨をめぐる、穏やかでやさしい旅の記録を綴ってまいります。

    もし、読んでくださるあなたにも、少しでもその空気感が届くことができたなら、それ以上の喜びはありません。


    【1】愛知:城と市場と喫茶店の街で

    名古屋駅に降り立った瞬間、まず目に飛び込んできたのは、圧倒的な存在感を放つ高層ビル群。

    ガラスと鉄の構造美が空を切り裂くように立ち並び、そのすぐ下には複雑に入り組んだ地下街が広がっています。

    駅構内には無数の人の流れ。

    スーツ姿のビジネスパーソン、観光客、学生――そんな多様な人々が行き交う名古屋駅は、まさにこの都市の“動脈”ともいえる場所です。

    けれど、駅を少し離れると、そこにはまるで時間が逆流したかのような光景が広がります。

    細い路地、赤ちょうちんの居酒屋、昔ながらの銭湯。

    最新と懐古、都市と庶民、効率と情緒――そのすべてが違和感なく共存しているのが、この街・名古屋、ひいては愛知の魅力なのだと感じました。

    旅の最初に訪れたのは、言わずと知れた名古屋城。

    地下鉄の出口から顔を出すと、緑に囲まれた公園の奥に、堂々とした天守閣が姿を現します。

    青空に映える白壁と、燦然と輝く金の鯱(しゃちほこ)。

    それはまるで時空を超えて、今もなお江戸の気配を残す名古屋の心のような存在でした。

    天守から見渡す城下町の風景は、かつての繁栄を今に伝えるかのよう。

    堀沿いを歩きながら、時おり聞こえてくる風の音、木々のざわめきに耳を澄ませると、何百年もの歴史がこの場所に積み重なっていることを、静かに教えてくれるようでした。

    観光客が多くとも、どこか“喧騒にならない”落ち着きがあるのは、この城の持つ風格と、それを大切に思う市民のまなざしゆえかもしれません。

    城から地下鉄で数駅、名古屋の庶民文化を色濃く残す「大須商店街」へ。

    ここはまさに、東西南北の文化が混ざり合いながら、独自のリズムを刻んでいるような場所。

    ひとたびアーケードに足を踏み入れれば、昭和レトロな喫茶店の向かいに最新のファッション店、その隣には唐揚げの立ち食い屋、さらにはアニメ・アイドルグッズの専門店……。

    この“雑多さ”が、なぜか心をほどいてくれるのです。

    商店街の角にあった和菓子屋にふらりと立ち寄り、草餅をひとつ注文しました。

    おばあちゃんが、ゆっくりとした手つきで包装してくれたその草餅は、もちもちとして、よもぎの香りがふわりと広がり、一口で懐かしさが胸に広がりました。

    通りの隅に腰掛けて、それを頬張る午後のひととき――喧騒のなかにも、確かな“やすらぎ”がありました。

    そして、愛知を語るうえで忘れてはならないのが、「モーニング文化」。

    朝の早い時間、ふらりと入った喫茶店では、コーヒー一杯にトースト、ゆで卵、サラダがセットになって運ばれてきました。

    隣の席では、新聞を読みながら常連同士が冗談を飛ばし合い、マスターが自然と笑顔で返している――そんな飾らない会話の輪のなかに、旅人である私にもひとときの居場所が用意されていたのです。

    「今日はどこから来たの?」「え、東京?それはまた遠くからねぇ」と、やさしい声をかけてくれた女性は、どうやらこの喫茶店の常連らしく、「この店のモーニングはね、昔から変わらないのよ」と、にこやかに教えてくれました。

    その一言に、この街の人々の“日常のあたたかさ”が詰まっているように感じたのです。

    午後には、少し足を伸ばして熱田神宮へ。

    伊勢神宮に次ぐ格式を持つとされるこの神社は、古代から続く信仰の場。

    大楠の樹が放つ生命力、静かに佇む拝殿の厳かさ、すべてが“深い祈り”の記憶を湛えていました。

    鳥居をくぐるたびに、俗世から少しずつ距離が取れていくような不思議な感覚に包まれます。

    参拝のあとは、門前で名物の「きよめ餅」をいただきました。もっちりとした餅の中に、甘さ控えめのこしあん。

    その素朴な味わいが、心にすっと染みていくようで、参道の静けさと相まって、しばし時が止まったかのようでした。

    愛知の旅は、単に“観光”という枠に収まりません。

    そこに暮らす人々のリズム、受け継がれてきた味、変わりゆく街並みと守られてきた景観――それらが日々のなかで自然と共存しながら、旅人を包み込んでくれるのです。

    高層ビルと昭和レトロ、城と商店街、モーニングと喫茶店――そのどれもが、無理なく並び立っている愛知という場所。

    この街の歩き方には、“効率”ではなく“余白”が似合うのかもしれません。

    どこかに急ぐでもなく、気の向くまま、ふらりと角を曲がる。

    そんな旅のなかにこそ、心をそっとほどいてくれる出会いが待っているのだと、私はこの愛知の時間のなかで教えてもらったような気がします。


    【2】岐阜:山の記憶と手仕事のぬくもり

    愛知から北へ、列車に揺られて辿り着いたのは岐阜の地。

    駅を出ると、空気がふと変わったように感じました。

    山の気配がぐっと近くなり、空は広く、風がやさしい。

    .車窓から見えていた木々の緑が、いつの間にか旅人を包み込むように寄り添ってきて、「ようこそ」と静かに語りかけてくるようでした。

    まず向かったのは、郡上八幡。

    城下町として栄えたこの町は、水の美しさでも知られています。

    町を流れる吉田川は、思わず息を呑むほど透き通っていて、川底の石がくっきり見えるほど。

    水の音に導かれるように歩いていくと、ところどころに“水舟”と呼ばれる共同の水場があり、今もなお地元の人たちが野菜を洗ったり、飲み水を汲んだりして使っています。

    そんな風景の中に、自分の暮らしのテンポがほんの少しだけスローモーションになるような、そんな感覚がありました。

    観光というよりは、「暮らしのリズムにふれる旅」といったほうがしっくりくるのかもしれません。

    郡上八幡城へと続く坂道を登れば、木造の天守がひっそりとたたずんでいます。

    現存する木造再建天守としては最古といわれるその姿は、まさに「山城」の趣。

    そこから望む町並みは、まるで時間の流れをそっと巻き戻したような、静謐さをたたえていました。

    昼食には、名物の“鶏ちゃん焼き”をいただきました。

    味噌やにんにく醤油で味付けされた鶏肉と野菜を鉄板でジュウジュウ焼いて、ごはんとともに頬張ると、口いっぱいに香ばしい旨味が広がります。

    素朴だけど、心に残る味。

    店のおばあちゃんが「鶏ちゃんは、家庭の味なんだよ」と笑っていたのが印象的でした。

    午後には、高山の古い町並みへ。

    江戸時代から続く商人の町で、木造の町家が今も整然と並び、通りを歩くだけで、まるで時代劇の世界に入り込んだかのような気持ちになります。

    味噌屋や酒蔵、和紙屋など、それぞれの店が代々守り続けてきた技と心を大切にしていて、どのお店でも、商品の向こうにある“物語”を静かに感じました。

    中でも印象深かったのが、一軒の染物屋。

    絞り染めの布が店先にひらひらと風に揺れ、通りの光を柔らかく染めていました。店主の方に声をかけると、にこやかに工房を案内してくれて、「これはね、一滴の染料から始まるんですよ」と話しながら、一本一本の糸に込められた想いを語ってくれました。

    岐阜という地は、山に守られ、自然と共に生きてきた人たちの丁寧な暮らしと、手仕事への誇りに満ちていました。

    そのひとつひとつが、静かに胸に響いてくるのです。

    豪華さや華やかさはないけれど、じわりと心に沁み入るような旅。

    夕暮れどき、下呂温泉へと向かうバスに揺られながら、山並みのシルエットが赤く染まっていくのを眺めていました。

    まるで墨絵のように連なる稜線、温泉街に近づくにつれてふわりと漂ってくる湯けむりの香り。

    チェックインした宿で、畳にごろんと寝転がった瞬間、「ああ、山の中にいるんだ」と、体がほっとするのを感じました。

    下呂の湯は、とろりと肌にやさしく、湯船に身を沈めるとまるで山に抱かれているかのよう。

    窓の外には、ゆっくりと夜のとばりが降りていき、湯に揺られながら「またこの山に来たいな」と思った夜でした。


    【3】静岡:海の光と、富士の影と

    岐阜の山里からバスと列車を乗り継ぎ、静岡へと南下していくと、景色は次第に開け、遠くにうっすらと水平線が見えてきました。

    そしてその向こうには、どこまでも穏やかな海と、どっしりと構える富士の存在。

    静岡は、海と山のどちらの恵みにも育まれた地。

    そこに息づくのは、陽光にあふれたやさしさと、凛とした美しさでした。

    まず私が向かったのは、三保の松原。

    世界文化遺産にも登録されているその地に立てば、眼前には太平洋が広がり、その向こうに霊峰・富士山の堂々たる姿が。

    波の音と松林を渡る風が重なり、自然の音だけが響く静寂なひととき。

    写真で何度も見た風景のはずなのに、実際に立ってみると、その雄大さに言葉を失ってしまいました。

    富士の姿は、ただ「見る」だけではなく、「感じる」ものなのだと、あらためて思います。

    その後、清水港に足を延ばし、新鮮な海の幸を堪能することに。

    地元の市場では、その朝に水揚げされたばかりの魚がずらりと並び、威勢のいい掛け声と、海の香りが満ちています。

    ふらりと入った食堂でいただいた「生しらす丼」は、海の恵みそのもの。

    ぷりぷりとした食感と潮の香りが口の中に広がり、思わず「これは贅沢だなぁ」とつぶやいてしまいました。

    静岡といえば、やはり“お茶”も欠かせません。

    午後には、牧之原台地へと向かい、広がる茶畑の中を歩いてみました。

    どこまでも続く緑の畝は、まるで静かに波打つ海のよう。

    製茶体験ができる農園では、地元の方から「お茶は葉だけじゃなく、空気や土、水も味に出るんだよ」と教えていただきました。

    淹れてくださった新茶を一口含むと、さわやかでいて深みのある味わいに、思わず笑みがこぼれます。

    まるで静岡の人のような、素直で芯のある味。

    夕方には、熱海へと向かいました。

    かつての新婚旅行ブームの名残りを残しつつ、今また静かに魅力を取り戻しつつある温泉街。

    駅前の坂道を降りていくと、海辺に近づくにつれて温泉宿がぽつぽつと並び、灯りがゆらゆらとともりはじめる頃には、なんともいえない懐かしい風情が漂い始めます。

    宿に着き、窓を開けると、潮騒の音とともに、沖をゆっくり進む漁船の灯りがぽつんぽつんと浮かんでいました。

    海沿いの露天風呂に身を沈めると、目の前には夜の海、頭上には星。

    海と空の境界がとけて、まるで宇宙に浮かんでいるような、そんな錯覚すら覚えるひとときでした。

    静岡の旅は、光と風、そして水の気配に満ちていました。

    どこにいても、自然がふわりと隣に寄り添ってくれる。

    そんな土地で過ごす時間は、心をやさしく解きほぐし、また明日を歩いていく力を静かにくれるように思います。


    【4】山梨:葡萄畑と富士を望む、大地の記憶

    静岡の熱海から再び内陸へと向かい、電車を乗り継いで山梨へ。

    車窓からの風景は徐々に変わり、海の気配は遠のいて、代わりに緑の丘陵と、空高く伸びてゆく山々の姿が目に飛び込んできます。

    やがて眼前にあらわれるのは、あの富士山。

    静岡側から見るそれとはまた異なる、厳かで少し控えめな立ち姿が、山梨の空に静かに溶け込んでいました。

    最初に訪れたのは、甲府の街。

    駅を降り立ったとたん、空気にどこか凛とした張りつめた気配があり、歴史ある城下町の落ち着いた佇まいがすっと肌に馴染んでいきます。

    甲府城跡を散策すると、石垣の上からは市街地と遠くの山並みが一望でき、風の音がまるで時代を超えて語りかけてくるような、不思議な感覚を覚えました。

    そして、山梨といえばやはり「果実の王国」。

    特に秋の葡萄畑は、まさにこの地の宝そのもの。

    勝沼に足を延ばせば、一面に広がる葡萄棚の景色に、ただただ圧倒されます。

    空に近い丘の斜面に、太陽の光をたっぷり浴びた房々がゆらめき、その間を風がすり抜けていく音が、どこまでも穏やか。

    葡萄農園では、収穫体験にも参加させてもらいました。

    手にとった一房の葡萄は、丸くてつややかで、ひと粒食べれば、自然の甘さと土のぬくもりが舌に広がります。

    農家のおばあちゃんが、「この土地の水と太陽が育ててくれたんだよ」とにっこり笑ってくれたのが、印象的でした。

    午後には、河口湖へと向かい、湖畔をのんびりと散歩。

    ちょうど風が止み、水面には逆さ富士が映っていました。

    空と湖と山と――すべてが織りなす静謐な光景に、しばし時を忘れます。

    湖畔のカフェでいただいたフルーツタルトには、山梨産の桃と葡萄がこれでもかと盛られていて、見た目も味わいも、まさに“山梨の恵み”の結晶でした。

    日が落ちる頃、富士山が夕焼けに染まり、まるで炎のような朱に変わっていく様子を、湖越しに眺めました。

    その美しさは、どこか神々しさすら感じさせ、旅の終わりにふさわしい深い感動を与えてくれました。

    山梨の旅は、山のふところに抱かれるような安らぎと、自然のリズムに寄り添う心地よさにあふれていました。

    大地の鼓動に耳を澄ませ、果実の甘さにほほえみ、人の温かさに触れる――それは、身体だけでなく、心までも満たしてくれるような旅だったのです。


    おわりに:四つの風土が紡いだ、心の風景

    愛知、岐阜、静岡、山梨。
    地図で見れば隣り合ったこの四つの県は、実際に歩いてみると、驚くほど異なる個性を宿していました。

    歴史の息づく城下町、山間に静かにたたずむ集落、海とともに生きる港町、果実の香りに包まれる丘の風景――それぞれの土地に流れる時間と、その土地に暮らす人々の息づかいに触れたことで、「旅」とは単なる移動ではなく、“感情の記憶を耕すもの”なのだと、あらためて感じさせられました。

    思い返せば、旅の途中で何度も心がふと静まり返る瞬間がありました。
    名古屋の喫茶店でふと耳にした常連さんたちの会話。

    郡上八幡の清流に手を浸したときのひんやりとした感触。

    由比の漁港でおばちゃんがくれた、焼きたての桜えびせんべいの香ばしい匂い。

    河口湖のほとりで出会った、逆さ富士を写すカメラマンが見せてくれた笑顔。

    それらはどれも、観光パンフレットには載っていない、小さな“心の風景”でした。

    けれども、そのどれもが、確かに旅を豊かにしてくれる、大切な一瞬だったのです。

    そしてこの旅でいちばん強く感じたのは、「風土が人をつくり、人が土地を語る」ということ。

    愛知の人々の温かくてさっぱりとした気質、岐阜の人々のまじめでやさしいまなざし、静岡の人々の明るくおおらかな会話、山梨の人々の静かだけれど芯のある言葉。

    それぞれが、土地の空気をそのまま映し出しているようで、出会うたびに「この地に来てよかった」と思えたのです。

    旅の最後、富士の夕景を見つめながら、ふと心に浮かんだのは――
    「また来よう」
    その一言でした。

    四つの風土が教えてくれたのは、目に映る景色の美しさだけではなく、自分自身の“旅人としての感性”の輪郭でした。

    どこへ行っても、どんな人に会っても、そこにはその地ならではの「語り」があり、その語りに耳を傾けることで、私たちはきっと何かを受け取っているのだと思います。

    この旅の記録が、あなたの心のどこかに、ふっと風が吹き抜けるような余白を残せたなら。
    そして、次にどこかへ旅立つとき、小さく背中を押すような存在になれたなら。
    そんな幸せはありません。

    また、どこかの道で。
    次の旅で、お会いしましょう。