また、来たくなる。東北という癒しの場所②

【4】宮城:海の記憶、杜のまなざし

宮城といえば、まず思い浮かぶのが「松島」。

日本三景のひとつに数えられるこの地は、古来より多くの旅人や詩人、画家たちに愛されてきた名勝地です。

大小260あまりの島々が点在する湾は、朝日に染まり、昼には青空を映し、夕暮れには朱色の世界へと変貌する。

どの瞬間も絵画のように美しく、自然とため息がこぼれます。

私が松島を訪れたのは、初秋の澄んだ空気が漂う日でした。

雲一つない空の下、遊覧船に乗ってゆっくりと湾内を巡ると、潮風が頬をなで、遠くに小さく浮かぶ鳥たちの声が届きます。

島々は、岩肌を露出させながらも松の緑をまとい、まるで水墨画のような静謐さを保っていました。

船上から見た「仁王島」や「鐘島」は、それぞれに神話的な存在感を放ち、自然が生み出した彫刻のように佇んでいました。

船を降りた後は、国宝・瑞巌寺へと足を運びました。

伊達政宗公が再興したこの禅寺は、松島の歴史を物語る象徴ともいえる存在です。

杉並木の参道を歩くうちに、街の喧騒は遠のき、足音すら吸い込まれるような静けさが心に沁み渡っていきます。

本堂は重厚な佇まいで、内部には細やかな装飾が施され、時代を超えて受け継がれてきた匠の技と信仰の深さが感じられました。

畳に座ってしばし目を閉じれば、心が整っていくような、そんな不思議な感覚を覚えます。

仙台市内へ戻ると、やはり「牛たん」は外せません。

駅ビルや街中に数多くの専門店がありますが、この日は老舗の名店「利久」へ。

炭火でじっくりと焼かれた厚切りの牛たんは、香ばしさと柔らかさを兼ね備え、噛むごとに肉の旨味があふれ出す逸品。

麦飯のぷちぷちとした食感と、コク深いテールスープとの相性も抜群で、まさに「仙台が誇るソウルフード」と呼ぶにふさわしい一皿でした。

ほっとひと息つきながら、この味を求めてまたこの地を訪れる人の気持ちが、自然と理解できた気がします。

食の魅力はまだまだ続きます。

早起きして訪れた「仙台朝市」は、地元の台所と呼ばれる場所。活気あふれる通りには、新鮮な魚介や旬の野菜、手作りの総菜がずらりと並び、訪れる人々の目を楽しませてくれます。

私は思わず「ホヤ」を購入。見た目のインパクトに少したじろぎながらも、地元のおばちゃんに勧められるままに口へ運ぶと、独特の磯の香りと深い塩味が広がり、「これはクセになる…!」と納得。

旅先でしか味わえない“未知との遭遇”が、また一つ思い出として刻まれました。

そして、今回の旅でとりわけ心に残ったのが、気仙沼での時間でした。

海に面したこの街は、2011年の東日本大震災で甚大な被害を受けた場所のひとつ。

しかし、そこには確かに「再生」が息づいていました。

仮設住宅から新しい街へと生まれ変わる過程、地域の絆の強さ、そして語り部の方々が語ってくれた当時の体験の数々。

その一言ひとことには、生きることの重みと、未来を信じる力強さがありました。

「旅とは、ただ風景を見るだけではなく、その土地の歴史や想いを感じること」——そんな思いが胸に広がります。

気仙沼の港で見上げた夕暮れの空は、どこまでも広く、どこまでも澄んでいて、まるで「また来てね」と語りかけてくれているようでした。

宮城の旅は、自然の壮大さと、人のやさしさ、そして土地の記憶が折り重なる、心深くに残る体験でした。

次にこの地を訪れるときには、また新しい風景が迎えてくれることでしょう。


【5】山形:山あいにひそむ、時を超えた静けさ

山形の地に足を踏み入れたとき、まず最初に胸にしみ込んでくるのは、その“静けさ”でした。

ただ静かなだけではなく、音が消えていく中に心のざわめきまで吸い込まれていくような、不思議な安らぎ。

都会の喧騒に慣れてしまった感覚を、そっと優しくほどいてくれるような場所。

ここには、時間さえゆるやかに流れている気がします。

そんな山形を象徴する存在が、「山寺(立石寺)」。

千年以上の歴史を持ち、千段を超える石段を登るその道のりは、まるで“己と向き合う旅”のようでした。

登るにつれて周囲の音が次第に遠のき、聞こえてくるのは風が木々を揺らす音と、自分の足音、そして蝉の声だけ。

まさに、松尾芭蕉が「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」と詠んだその風景が、今も変わらずそこにありました。

石段を踏みしめるごとに、心の中の雑念がすっと削がれていくようで、山門をくぐる頃には、すっかり別人のような気持ちにさえなっていました。

頂上にある五大堂からの眺めは、言葉を失うほどの絶景。

眼下には緑の渓谷が広がり、遠く山形市街がぼんやりと浮かびます。

その悠然たる景色を見ていると、人の営みの小ささではなく、そこに宿る“尊さ”のようなものを感じるのです。

そして山形といえば、忘れてはならないのが“さくらんぼの王国”であること。

初夏の季節、私は東根市の果樹園でさくらんぼ狩りを体験しました。

太陽をたっぷり浴びて赤く実った果実を自分の手で摘み取り、その場で口に含むと、弾けるような甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、「これがほんとうの果実の味なのか」と思わず声が漏れました。

果樹園のおじさんは「手をかけた分だけ応えてくれる子たちなんだよ」と、どこか誇らしげに微笑んでいました。

その言葉のひとつひとつから、果物にかける愛情と、自然とともに生きる生活の尊さが伝わってくるようで、なんだか胸が熱くなりました。

また、山形は“湯の国”としても知られ、各地に点在する名湯も旅の魅力を一層深めてくれます。

中でも私が滞在した蔵王温泉は、強い硫黄泉で「美肌の湯」としても名高く、白濁した湯に身を沈めるだけで、まるで心の奥底まで洗い流されていくようでした。

露天風呂からは、遠く連なる蔵王連峰が望め、澄んだ空気と湯けむりが相まって、まさに“異日常”。

湯上がりには浴衣姿でそぞろ歩きを楽しみながら、夜の静けさに包まれる蔵王の街並みをゆっくりと歩きました。

その夜、立ち寄った温泉街の小さな居酒屋で出会ったのが、地元の銘酒「十四代」と“芋煮”。

ほろりと甘く、出汁の効いた牛肉と里芋の温もりが、冷えた身体にじんわりと沁みていきます。

隣席にいた地元のご夫婦が「うちの芋煮は味噌じゃなくて醤油なの。これが庄内流なんだよ」と教えてくれたのも、どこか懐かしい“ふれあい”のひとコマでした。

そして山形グルメといえば、外せないのが「冷たい肉そば」。

特に河北町で出会った老舗の一杯は、出汁の冷たさが暑さを忘れさせてくれ、しっかりとコシのあるそばと鶏肉の歯ごたえが絶妙で、箸が止まりません。

道の駅で味わった玉こんにゃくや、秋にいただいた芋煮もまた、どれも素朴で滋味深く、地に根ざした“日常のごちそう”という風情がありました。

板そばの店では、そば猪口を持つ手が止まったとき、隣に座ったおじいちゃんが「ここのそばは、昔ながらでうまいべ」と笑って話しかけてくれました。

その笑顔に背中を押され、私はそばをもう一口すすると、まるで山形そのものを味わっているような、そんな幸福感に包まれました。

山形の旅は、決して派手ではありません。

けれどその一つひとつの出会いや風景が、心の奥底に静かに残り続ける。

山に抱かれ、歴史を歩き、湯に癒やされ、人のぬくもりにふれる。

そのすべてが、旅というより“心を預ける時間”のようで、今でもふとした瞬間に思い出すのです。


【6】福島:風と大地が語るもの

福島の地に立ったとき、最初に感じたのは“風”の存在でした。

高原を吹き抜ける風はどこか懐かしく、そして力強い。

福島という土地には、広大な自然とともに、人々の記憶や思いが深く刻まれているように感じます。

私が最初に訪れたのは、会津若松。

鶴ヶ城の白壁が青空に映えるその姿は、まさに歴史の象徴。

明治維新の激動の中で、会津藩が最後まで戦い抜いた誇りと悲哀が、この城には今も静かに息づいていました。

特に印象的だったのが、天守閣からの眺め。

赤瓦の屋根越しに広がる町並みを見下ろしながら、かつてこの地に生きた人々の想いに思いを馳せました。

そして、白虎隊の記憶が残る飯盛山へも足を運びました。

少年たちが祖国を思い、自刃したというその物語は、どこか伝説のようでありながらも、実際にその地を歩くと一層重く、現実味を帯びて胸に迫ってきます。

語り部の方が静かに話してくれた言葉のひとつひとつが、まるで祈りのように響き、気づけば私は何度もうなずいていました。

福島には、もうひとつの“顔”があります。

それが、自然の圧倒的な美しさ。

裏磐梯に広がる五色沼では、季節ごとに水面の色を変える湖沼群が訪れる者の心を奪います。

私が訪れたのは紅葉の季節で、湖面に映る赤や黄の木々がまるで万華鏡のようで、息をのむほどの美しさでした。

どこか幻想的なその風景の中を歩いていると、現実からふっと離れたような気持ちになり、ただひたすらに静けさと色彩を味わう時間となりました。

温泉もまた、福島の魅力のひとつです。

特に印象に残っているのが、土湯温泉。

川沿いに湯宿が並ぶその町は、どこか昭和の香りを残した懐かしい空気に満ちていて、夜には川のせせらぎだけが響く静かな空間に心が和みました。

宿の女将さんが「ここの湯は、人をあっためるだけじゃなくて、心をゆるめる湯なんですよ」と言っていたのがとても印象的で、まさにその通りの体験でした。

福島のグルメもまた、旅を豊かにしてくれる要素のひとつ。

会津の郷土料理「こづゆ」は、透き通るような出汁の中に、干し貝柱や野菜、きくらげなどがやさしく溶け合った味わいで、ひと口ごとにほっとする温かさが広がります。

地元の居酒屋では、馬刺しと日本酒「会津中将」をあわせていただきました。

まるで雪のようにとろける馬刺しの舌触りと、ふわりと広がる米の旨味を感じる酒の余韻。

どちらも“土地の記憶”を味わうようで、ただの食事以上の時間になりました。

そして、福島に訪れるたびに強く感じるのが、この土地が持つ“再生”の力です。

東日本大震災、そして原発事故という大きな試練を経験した福島。

しかし、だからこそ出会える人々のまなざしには、強さと優しさが宿っていました。

被災地を訪れた際、語り部の方が「忘れてほしくない。でも、それ以上に、今の福島を見てほしい」と語ってくれた言葉が、心に深く残っています。

その後、いわき市の海岸を歩いたとき、穏やかな波の音が耳に届いてきました。

海は何事もなかったかのように青く、美しく、その風景を前にして私はしばらく何も言えませんでした。

ただ、風に吹かれながら思ったのは、「この地は、静かに、でも確実に歩み続けている」ということ。

傷ついた土地が、自らを癒やし、そして未来をつくろうとするその姿勢に、私は心から敬意を抱かずにはいられませんでした。

福島の旅は、美しさと痛み、静けさと力強さ、そのすべてが織り交ざった、まさに“人の生きる風景”に触れるような時間でした。


おわりに:旅の余白に、心を置いて

東北六県をめぐる旅を終えた今、心に残るのは、どの風景でもなく、どの料理でもなく――その地で出会った“まなざし”です。

ねぶたの炎がゆらめく夜に交わした笑顔、松島の静かな海を眺める時間、山寺の石段を登る途中で聴こえた蝉の声、さくらんぼの甘さに驚く私を見て笑った農家のおじさん、気仙沼で「生きること」を語ってくれた語り部の方の澄んだ瞳、福島の浜辺で感じた、言葉にできない“風の記憶”。

どれもが、旅のページの隅にそっと書き込まれた余白のように、静かに、けれど確かに、私の中に残っています。

東北は、派手な華やかさこそないかもしれません。けれど、ここには“生きる力”と“人のぬくもり”が、凛として息づいています。

厳しい自然の中で育まれてきた文化と、幾度となく立ち上がってきた人々の姿は、私たちが忘れかけている何か――“暮らすこと”の本質、“つながる”ことの意味をそっと思い出させてくれるのです。

旅とは、地図にないものを見つけに行くこと。

名所や名物だけではなく、ふとした瞬間の空の色、道端で交わしたひと言、頬をかすめる風の匂い――それらすべてが、旅という時間を豊かにし、人生にやわらかな余白を与えてくれます。

そして、東北という地は、そうした“余白”を大切に抱きしめることができる場所でした。

私は今、あらためてこう思います。

「また、帰ってこよう」と。

春には弘前の桜を、夏には奥入瀬の水音を、秋には山寺の紅葉を、冬には津軽鉄道のストーブのぬくもりを――

季節が巡るたびに、きっと東北は新しい表情で私を迎えてくれることでしょう。

そのときには、また新たな出会いと物語が待っているはずです。

だから私は、この旅を“終わり”ではなく、“始まり”として記憶の中にしまっておこうと思います。

また、あの風に吹かれに行く日まで――。

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