風土にふれ、心ほどける――愛知・岐阜・静岡・山梨、四つの旅時間

はじめに:風土が語りかける、四つのまなざし

日本列島のほぼ中央に位置する中部地方。

その心臓部ともいえる愛知、岐阜、静岡、山梨の四県をめぐる今回の旅は、私にとって、まるで一枚の風景画がゆっくりとめくられていくような、そんな時間でした。

この地域を旅するとき、その距離感に惑わされてはいけません。

地図で見ると隣り合っているように感じるこれらの県も、実際に足を踏み入れてみれば、それぞれの土地が抱える“時間の流れ方”や“人の営み”、そして“風景の息づかい”は驚くほどに異なります。

だからこそ、移動そのものが旅の醍醐味であり、次の場所へとたどり着くたびに、まったく新しい物語が始まるのです。

愛知の町には、歴史と現代が見事に交錯する、どこか懐の深い風土がありました。

名古屋の高層ビル街を歩いていても、ふとした小道の先に、老舗の味噌煮込みうどん屋や、木の香ただよう古書店がひっそりと佇んでいて、時間がふと巻き戻されるような感覚にとらわれることがあります。

過去と現在が無理なく共存し、訪れる人を優しく受け止めてくれる、そんな“都市の包容力”がこの地にはありました。

岐阜に足を踏み入れれば、一転して山里の静けさが心に沁みわたります。

朝霧の中を走るローカル列車の窓から見える、瓦屋根と木造家屋が点在する風景。

そのひとつひとつが、人々の慎ましやかな暮らしと自然への畏敬を映し出しているようでした。

川のせせらぎや鳥の声が、都会では忘れていた“音の記憶”を呼び覚ましてくれるのです。

そして静岡。

海と山に包まれたその土地では、旅人はいつも自然と対話するような時間を過ごすことになります。

潮の香りを乗せた風、駿河湾に映る夕陽、茶畑の間を縫うように続く小道。

それらすべてが、言葉を越えて何かを語りかけてきます。

ここでは、風景そのものが旅人を“癒す力”を持っているのだと感じました。

最後に訪れた山梨では、山並みとぶどう畑が織りなす牧歌的な光景が、疲れた心をそっと包み込んでくれました。

甲府盆地に広がる静かな町並み、夕暮れに染まる富士山のシルエット、そして湯けむり立ちのぼる温泉宿――どれもが、日々の慌ただしさを忘れさせてくれる、やさしい風景でした。

この四県をめぐる旅を通して、私は「旅とは、ただ移動することではなく、“その土地の風土に身を委ねること”なのだ」とあらためて感じました。

名所を巡るだけでは見えてこない風景――それは、喫茶店の窓越しに見た人の流れだったり、地元の方との何気ない会話だったり、田んぼのあぜ道で見上げた空の青だったりします。

旅とは、そうしたささやかな“出会い”を、ひとつひとつ自分の心に重ねていく行為なのかもしれません。

この記録は、そんな小さな“心の積み重ね”を書き留めたものです。

風景が語り、人々が微笑み、土地の記憶がそっと手を差し伸べてくれる――そんな時間のなかで、私は何度も深呼吸をし、心の奥にたまっていたものがすーっと抜けていくのを感じました。

それではこれから、愛知、岐阜、静岡、山梨をめぐる、穏やかでやさしい旅の記録を綴ってまいります。

もし、読んでくださるあなたにも、少しでもその空気感が届くことができたなら、それ以上の喜びはありません。


【1】愛知:城と市場と喫茶店の街で

名古屋駅に降り立った瞬間、まず目に飛び込んできたのは、圧倒的な存在感を放つ高層ビル群。

ガラスと鉄の構造美が空を切り裂くように立ち並び、そのすぐ下には複雑に入り組んだ地下街が広がっています。

駅構内には無数の人の流れ。

スーツ姿のビジネスパーソン、観光客、学生――そんな多様な人々が行き交う名古屋駅は、まさにこの都市の“動脈”ともいえる場所です。

けれど、駅を少し離れると、そこにはまるで時間が逆流したかのような光景が広がります。

細い路地、赤ちょうちんの居酒屋、昔ながらの銭湯。

最新と懐古、都市と庶民、効率と情緒――そのすべてが違和感なく共存しているのが、この街・名古屋、ひいては愛知の魅力なのだと感じました。

旅の最初に訪れたのは、言わずと知れた名古屋城。

地下鉄の出口から顔を出すと、緑に囲まれた公園の奥に、堂々とした天守閣が姿を現します。

青空に映える白壁と、燦然と輝く金の鯱(しゃちほこ)。

それはまるで時空を超えて、今もなお江戸の気配を残す名古屋の心のような存在でした。

天守から見渡す城下町の風景は、かつての繁栄を今に伝えるかのよう。

堀沿いを歩きながら、時おり聞こえてくる風の音、木々のざわめきに耳を澄ませると、何百年もの歴史がこの場所に積み重なっていることを、静かに教えてくれるようでした。

観光客が多くとも、どこか“喧騒にならない”落ち着きがあるのは、この城の持つ風格と、それを大切に思う市民のまなざしゆえかもしれません。

城から地下鉄で数駅、名古屋の庶民文化を色濃く残す「大須商店街」へ。

ここはまさに、東西南北の文化が混ざり合いながら、独自のリズムを刻んでいるような場所。

ひとたびアーケードに足を踏み入れれば、昭和レトロな喫茶店の向かいに最新のファッション店、その隣には唐揚げの立ち食い屋、さらにはアニメ・アイドルグッズの専門店……。

この“雑多さ”が、なぜか心をほどいてくれるのです。

商店街の角にあった和菓子屋にふらりと立ち寄り、草餅をひとつ注文しました。

おばあちゃんが、ゆっくりとした手つきで包装してくれたその草餅は、もちもちとして、よもぎの香りがふわりと広がり、一口で懐かしさが胸に広がりました。

通りの隅に腰掛けて、それを頬張る午後のひととき――喧騒のなかにも、確かな“やすらぎ”がありました。

そして、愛知を語るうえで忘れてはならないのが、「モーニング文化」。

朝の早い時間、ふらりと入った喫茶店では、コーヒー一杯にトースト、ゆで卵、サラダがセットになって運ばれてきました。

隣の席では、新聞を読みながら常連同士が冗談を飛ばし合い、マスターが自然と笑顔で返している――そんな飾らない会話の輪のなかに、旅人である私にもひとときの居場所が用意されていたのです。

「今日はどこから来たの?」「え、東京?それはまた遠くからねぇ」と、やさしい声をかけてくれた女性は、どうやらこの喫茶店の常連らしく、「この店のモーニングはね、昔から変わらないのよ」と、にこやかに教えてくれました。

その一言に、この街の人々の“日常のあたたかさ”が詰まっているように感じたのです。

午後には、少し足を伸ばして熱田神宮へ。

伊勢神宮に次ぐ格式を持つとされるこの神社は、古代から続く信仰の場。

大楠の樹が放つ生命力、静かに佇む拝殿の厳かさ、すべてが“深い祈り”の記憶を湛えていました。

鳥居をくぐるたびに、俗世から少しずつ距離が取れていくような不思議な感覚に包まれます。

参拝のあとは、門前で名物の「きよめ餅」をいただきました。もっちりとした餅の中に、甘さ控えめのこしあん。

その素朴な味わいが、心にすっと染みていくようで、参道の静けさと相まって、しばし時が止まったかのようでした。

愛知の旅は、単に“観光”という枠に収まりません。

そこに暮らす人々のリズム、受け継がれてきた味、変わりゆく街並みと守られてきた景観――それらが日々のなかで自然と共存しながら、旅人を包み込んでくれるのです。

高層ビルと昭和レトロ、城と商店街、モーニングと喫茶店――そのどれもが、無理なく並び立っている愛知という場所。

この街の歩き方には、“効率”ではなく“余白”が似合うのかもしれません。

どこかに急ぐでもなく、気の向くまま、ふらりと角を曲がる。

そんな旅のなかにこそ、心をそっとほどいてくれる出会いが待っているのだと、私はこの愛知の時間のなかで教えてもらったような気がします。


【2】岐阜:山の記憶と手仕事のぬくもり

愛知から北へ、列車に揺られて辿り着いたのは岐阜の地。

駅を出ると、空気がふと変わったように感じました。

山の気配がぐっと近くなり、空は広く、風がやさしい。

.車窓から見えていた木々の緑が、いつの間にか旅人を包み込むように寄り添ってきて、「ようこそ」と静かに語りかけてくるようでした。

まず向かったのは、郡上八幡。

城下町として栄えたこの町は、水の美しさでも知られています。

町を流れる吉田川は、思わず息を呑むほど透き通っていて、川底の石がくっきり見えるほど。

水の音に導かれるように歩いていくと、ところどころに“水舟”と呼ばれる共同の水場があり、今もなお地元の人たちが野菜を洗ったり、飲み水を汲んだりして使っています。

そんな風景の中に、自分の暮らしのテンポがほんの少しだけスローモーションになるような、そんな感覚がありました。

観光というよりは、「暮らしのリズムにふれる旅」といったほうがしっくりくるのかもしれません。

郡上八幡城へと続く坂道を登れば、木造の天守がひっそりとたたずんでいます。

現存する木造再建天守としては最古といわれるその姿は、まさに「山城」の趣。

そこから望む町並みは、まるで時間の流れをそっと巻き戻したような、静謐さをたたえていました。

昼食には、名物の“鶏ちゃん焼き”をいただきました。

味噌やにんにく醤油で味付けされた鶏肉と野菜を鉄板でジュウジュウ焼いて、ごはんとともに頬張ると、口いっぱいに香ばしい旨味が広がります。

素朴だけど、心に残る味。

店のおばあちゃんが「鶏ちゃんは、家庭の味なんだよ」と笑っていたのが印象的でした。

午後には、高山の古い町並みへ。

江戸時代から続く商人の町で、木造の町家が今も整然と並び、通りを歩くだけで、まるで時代劇の世界に入り込んだかのような気持ちになります。

味噌屋や酒蔵、和紙屋など、それぞれの店が代々守り続けてきた技と心を大切にしていて、どのお店でも、商品の向こうにある“物語”を静かに感じました。

中でも印象深かったのが、一軒の染物屋。

絞り染めの布が店先にひらひらと風に揺れ、通りの光を柔らかく染めていました。店主の方に声をかけると、にこやかに工房を案内してくれて、「これはね、一滴の染料から始まるんですよ」と話しながら、一本一本の糸に込められた想いを語ってくれました。

岐阜という地は、山に守られ、自然と共に生きてきた人たちの丁寧な暮らしと、手仕事への誇りに満ちていました。

そのひとつひとつが、静かに胸に響いてくるのです。

豪華さや華やかさはないけれど、じわりと心に沁み入るような旅。

夕暮れどき、下呂温泉へと向かうバスに揺られながら、山並みのシルエットが赤く染まっていくのを眺めていました。

まるで墨絵のように連なる稜線、温泉街に近づくにつれてふわりと漂ってくる湯けむりの香り。

チェックインした宿で、畳にごろんと寝転がった瞬間、「ああ、山の中にいるんだ」と、体がほっとするのを感じました。

下呂の湯は、とろりと肌にやさしく、湯船に身を沈めるとまるで山に抱かれているかのよう。

窓の外には、ゆっくりと夜のとばりが降りていき、湯に揺られながら「またこの山に来たいな」と思った夜でした。


【3】静岡:海の光と、富士の影と

岐阜の山里からバスと列車を乗り継ぎ、静岡へと南下していくと、景色は次第に開け、遠くにうっすらと水平線が見えてきました。

そしてその向こうには、どこまでも穏やかな海と、どっしりと構える富士の存在。

静岡は、海と山のどちらの恵みにも育まれた地。

そこに息づくのは、陽光にあふれたやさしさと、凛とした美しさでした。

まず私が向かったのは、三保の松原。

世界文化遺産にも登録されているその地に立てば、眼前には太平洋が広がり、その向こうに霊峰・富士山の堂々たる姿が。

波の音と松林を渡る風が重なり、自然の音だけが響く静寂なひととき。

写真で何度も見た風景のはずなのに、実際に立ってみると、その雄大さに言葉を失ってしまいました。

富士の姿は、ただ「見る」だけではなく、「感じる」ものなのだと、あらためて思います。

その後、清水港に足を延ばし、新鮮な海の幸を堪能することに。

地元の市場では、その朝に水揚げされたばかりの魚がずらりと並び、威勢のいい掛け声と、海の香りが満ちています。

ふらりと入った食堂でいただいた「生しらす丼」は、海の恵みそのもの。

ぷりぷりとした食感と潮の香りが口の中に広がり、思わず「これは贅沢だなぁ」とつぶやいてしまいました。

静岡といえば、やはり“お茶”も欠かせません。

午後には、牧之原台地へと向かい、広がる茶畑の中を歩いてみました。

どこまでも続く緑の畝は、まるで静かに波打つ海のよう。

製茶体験ができる農園では、地元の方から「お茶は葉だけじゃなく、空気や土、水も味に出るんだよ」と教えていただきました。

淹れてくださった新茶を一口含むと、さわやかでいて深みのある味わいに、思わず笑みがこぼれます。

まるで静岡の人のような、素直で芯のある味。

夕方には、熱海へと向かいました。

かつての新婚旅行ブームの名残りを残しつつ、今また静かに魅力を取り戻しつつある温泉街。

駅前の坂道を降りていくと、海辺に近づくにつれて温泉宿がぽつぽつと並び、灯りがゆらゆらとともりはじめる頃には、なんともいえない懐かしい風情が漂い始めます。

宿に着き、窓を開けると、潮騒の音とともに、沖をゆっくり進む漁船の灯りがぽつんぽつんと浮かんでいました。

海沿いの露天風呂に身を沈めると、目の前には夜の海、頭上には星。

海と空の境界がとけて、まるで宇宙に浮かんでいるような、そんな錯覚すら覚えるひとときでした。

静岡の旅は、光と風、そして水の気配に満ちていました。

どこにいても、自然がふわりと隣に寄り添ってくれる。

そんな土地で過ごす時間は、心をやさしく解きほぐし、また明日を歩いていく力を静かにくれるように思います。


【4】山梨:葡萄畑と富士を望む、大地の記憶

静岡の熱海から再び内陸へと向かい、電車を乗り継いで山梨へ。

車窓からの風景は徐々に変わり、海の気配は遠のいて、代わりに緑の丘陵と、空高く伸びてゆく山々の姿が目に飛び込んできます。

やがて眼前にあらわれるのは、あの富士山。

静岡側から見るそれとはまた異なる、厳かで少し控えめな立ち姿が、山梨の空に静かに溶け込んでいました。

最初に訪れたのは、甲府の街。

駅を降り立ったとたん、空気にどこか凛とした張りつめた気配があり、歴史ある城下町の落ち着いた佇まいがすっと肌に馴染んでいきます。

甲府城跡を散策すると、石垣の上からは市街地と遠くの山並みが一望でき、風の音がまるで時代を超えて語りかけてくるような、不思議な感覚を覚えました。

そして、山梨といえばやはり「果実の王国」。

特に秋の葡萄畑は、まさにこの地の宝そのもの。

勝沼に足を延ばせば、一面に広がる葡萄棚の景色に、ただただ圧倒されます。

空に近い丘の斜面に、太陽の光をたっぷり浴びた房々がゆらめき、その間を風がすり抜けていく音が、どこまでも穏やか。

葡萄農園では、収穫体験にも参加させてもらいました。

手にとった一房の葡萄は、丸くてつややかで、ひと粒食べれば、自然の甘さと土のぬくもりが舌に広がります。

農家のおばあちゃんが、「この土地の水と太陽が育ててくれたんだよ」とにっこり笑ってくれたのが、印象的でした。

午後には、河口湖へと向かい、湖畔をのんびりと散歩。

ちょうど風が止み、水面には逆さ富士が映っていました。

空と湖と山と――すべてが織りなす静謐な光景に、しばし時を忘れます。

湖畔のカフェでいただいたフルーツタルトには、山梨産の桃と葡萄がこれでもかと盛られていて、見た目も味わいも、まさに“山梨の恵み”の結晶でした。

日が落ちる頃、富士山が夕焼けに染まり、まるで炎のような朱に変わっていく様子を、湖越しに眺めました。

その美しさは、どこか神々しさすら感じさせ、旅の終わりにふさわしい深い感動を与えてくれました。

山梨の旅は、山のふところに抱かれるような安らぎと、自然のリズムに寄り添う心地よさにあふれていました。

大地の鼓動に耳を澄ませ、果実の甘さにほほえみ、人の温かさに触れる――それは、身体だけでなく、心までも満たしてくれるような旅だったのです。


おわりに:四つの風土が紡いだ、心の風景

愛知、岐阜、静岡、山梨。
地図で見れば隣り合ったこの四つの県は、実際に歩いてみると、驚くほど異なる個性を宿していました。

歴史の息づく城下町、山間に静かにたたずむ集落、海とともに生きる港町、果実の香りに包まれる丘の風景――それぞれの土地に流れる時間と、その土地に暮らす人々の息づかいに触れたことで、「旅」とは単なる移動ではなく、“感情の記憶を耕すもの”なのだと、あらためて感じさせられました。

思い返せば、旅の途中で何度も心がふと静まり返る瞬間がありました。
名古屋の喫茶店でふと耳にした常連さんたちの会話。

郡上八幡の清流に手を浸したときのひんやりとした感触。

由比の漁港でおばちゃんがくれた、焼きたての桜えびせんべいの香ばしい匂い。

河口湖のほとりで出会った、逆さ富士を写すカメラマンが見せてくれた笑顔。

それらはどれも、観光パンフレットには載っていない、小さな“心の風景”でした。

けれども、そのどれもが、確かに旅を豊かにしてくれる、大切な一瞬だったのです。

そしてこの旅でいちばん強く感じたのは、「風土が人をつくり、人が土地を語る」ということ。

愛知の人々の温かくてさっぱりとした気質、岐阜の人々のまじめでやさしいまなざし、静岡の人々の明るくおおらかな会話、山梨の人々の静かだけれど芯のある言葉。

それぞれが、土地の空気をそのまま映し出しているようで、出会うたびに「この地に来てよかった」と思えたのです。

旅の最後、富士の夕景を見つめながら、ふと心に浮かんだのは――
「また来よう」
その一言でした。

四つの風土が教えてくれたのは、目に映る景色の美しさだけではなく、自分自身の“旅人としての感性”の輪郭でした。

どこへ行っても、どんな人に会っても、そこにはその地ならではの「語り」があり、その語りに耳を傾けることで、私たちはきっと何かを受け取っているのだと思います。

この旅の記録が、あなたの心のどこかに、ふっと風が吹き抜けるような余白を残せたなら。
そして、次にどこかへ旅立つとき、小さく背中を押すような存在になれたなら。
そんな幸せはありません。

また、どこかの道で。
次の旅で、お会いしましょう。

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