【4】山口:歴史と海が語りかける静かな余韻
広島から山陽本線を西へ。
車窓には、紺碧の瀬戸内海と、なだらかに連なる山の稜線が交互に現れ、旅人のまなざしを静かに誘います。
窓の外を流れる風景は、どこか懐かしく、そして柔らかい。
ゆっくりと過去と未来の境界が曖昧になっていくような感覚の中、山口という土地が、そっとその姿を現してくれました。
山口は、決して派手さを前面に出すような土地ではありません。
けれど、歩くほどに、感じるほどに、じんわりと心の奥に沁み込んでくる――そんな“静かな余韻”を宿した場所です。
足を踏み入れた瞬間、空気がすこしやわらかくなったような気がしました。
音のない歓迎に、こちらも自然と呼吸を深くするようになります。
最初に訪れたのは、山口市にある「瑠璃光寺」。
日本三名塔のひとつに数えられる、国宝・五重塔が凛と佇むその姿に、言葉を失いました。周囲を囲む木々がそよぎ、塔のシルエットが池の水面にゆらりと映り込む――その情景は、まるで日本画の世界に迷い込んだかのようです。
時折、鳥のさえずりがどこからともなく聞こえてきて、その響きが塔の間に溶け込んでいくようでした。
この五重塔は、室町時代に建てられたもの。
応仁の乱も、江戸の泰平も、幕末の激動も、すべてを超えて、今日もここに立っている。
その静かな佇まいに、人の歴史のはかなさと、祈りの力の強さを感じました。
陽の光が木漏れ日となって塔の朱色をやさしく照らす午後――そこには、“時の流れ”というものが、まるで絹糸のように柔らかく、そして絶え間なく漂っていたのです。
その後、長門市へと移動し、かねてから憧れていた「元乃隅神社」へと向かいました。
海を臨む断崖に、123基の赤い鳥居がずらりと並ぶその姿は、まさに圧巻。
鳥居が海へと続いていく風景は、神話の世界を現実にしたかのような幻想的な美しさがありました。
潮風が強く吹きつけ、波音が轟く中、鳥居をひとつ、またひとつとくぐりながら進むたびに、心の中のざわつきがすっと鎮まっていくのを感じました。
鳥居の先に広がる日本海は、深い青と白い波のコントラストが鮮やかで、どこまでも清らか。
空の青と海の青、そして鳥居の赤。
その三色が、自然の中で絶妙に溶け合い、旅人の記憶に深く焼きついていくのです。
眼下に広がる海を見下ろしながら、しばらく風に吹かれていると、心の奥に溜まっていた澱のようなものが、すこしずつ流れていくような気がしました。

次に訪れたのは、角島大橋。
遠くからでもその存在感は圧倒的で、まるで空と海を結ぶ一本の線のように、凛と延びるその姿は、ただの橋ではなく「風景そのもの」でした。
エメラルドグリーンの海を左右に従えながら、車でゆっくりと走るその時間は、まさに夢のよう。
時折、橋の上で車を停め、歩いて風を感じながら眺める海の景色は、言葉では言い表せないほどの美しさがありました。
角島のビーチでは、夕暮れの光が海面にやわらかく反射していました。

潮騒の音が心地よく、すぐそばで子どもたちの笑い声が聞こえてくる――そんな穏やかな時間の中に身を置いていると、「旅の本質って、こういう瞬間なのかもしれない」とふと思うのです。観光地を巡るのではなく、“風景に溶け込む”ような旅。
それこそが、山口が与えてくれる体験のひとつなのでしょう。
旅の締めくくりは、下関。
港町ならではの活気が漂う唐戸市場は、早朝から地元の人と観光客が入り混じり、威勢のいい掛け声が飛び交っていました。
市場の一角で買った握り寿司を手に、海沿いのベンチに腰掛けて頬張ると、舌の上でとろけるような新鮮さに、思わず目を閉じました。
その味わいは、ただの“食”を超え、“土地を感じる”という体験へと昇華していたのです。
そして、下関といえば忘れてはならないのが「ふぐ」。
夜は地元の小料理屋でてっさ(ふぐ刺し)や唐揚げ、ちり鍋に舌鼓を打ちました。
一見淡白に思えるその白身には、噛むほどにじんわりと広がる滋味深い味わいがあり、身体の芯まで“ごちそう”の温もりが染み渡っていくようでした。
店のおかみさんが、「山口のふぐは、命がけで育てられてるんやから、味も真剣そのものよ」と笑いながら語ってくれたのも、心に残るひとときでした。
夜、下関の海沿いを歩くと、対岸には九州・門司の街明かりがぽつぽつと灯っていました。
海の向こうにも続く人々の暮らし、その灯りを眺めながら、私はふと「旅は終わらないものなのだ」と感じました。
目の前の海、背中に背負った風景、そして心に残った人の言葉。
すべてが、旅の続きへと優しく背中を押してくれるようでした。
山口という土地は、声高に何かを主張することはありません。
でも、その静かなまなざしと、時の深みに抱かれた風景、人のぬくもりは、確かに旅人の心に何かを残してくれるのです。
語りすぎず、けれども確かにそこにある“物語”――山口の旅は、そのひとつひとつが、まるで詩の一節のように、心の奥に静かに灯り続けています。
【5】岡山:晴れの国に出会う、光と緑のまほろば
本州の西側、中国地方の一角に位置する岡山県。
瀬戸内海に面し、温暖な気候に恵まれたこの地は、「晴れの国」という愛称でも知られています。
訪れたのは、春の陽光がやわらかく差し込む頃。
空は透き通るように青く、軽やかな風が頬をなでていきました。
そんな始まりから、もうこの旅は優しさに満ちていると確信できたのです。
旅の始まりに選んだのは、岡山の象徴とも言える「後楽園」。
日本三名園の一つに数えられるこの庭園は、元禄の時代、池田綱政によって築かれました。
園内に一歩足を踏み入れた瞬間、ふわりと時間の流れが変わったような感覚に包まれます。
喧騒が遠のき、ただ風と葉擦れの音、そして水面に広がる光の反射がそこにある。
庭園をゆるやかに歩いていくと、鯉が泳ぐ池のきらめきや、野点傘の下でゆったりとお茶をたしなむ人々の姿が目に映ります。
広い芝生の丘に寝転んで空を見上げると、季節の移ろいまでもが空気に混ざって感じられるようでした。
自然と人工が見事に調和したこの空間には、静かな誇りが息づいています。
ある場所では、白砂が敷き詰められた小道の端に腰を下ろし、じっと池を眺めました。
水面に映る岡山城の天守が、そっと風に揺れながら波打っているのが美しく、なんだか夢の中を歩いているようでした。

後楽園をあとにして、川を挟んで向かいにある「岡山城」へ。
漆黒の外壁をもつ天守閣は「烏城(うじょう)」とも呼ばれ、その威風堂々たる姿はまさに“静の美”。
白亜の姫路城とは対照的に、岡山城はしっとりとした風格をまとい、見る者に深い余韻を残します。
城内では、岡山藩の歴史や城主・池田家にまつわる資料が展示されており、往時の城下町のにぎわいを想像しながら歩くのが楽しいひととき。
展望台から見下ろす景色は圧巻で、後楽園の緑と街並み、そしてゆったりと流れる旭川がひとつの絵巻物のように広がっていました。

列車で西へ移動し、次に向かったのは「倉敷美観地区」。
この町には、まるで映画のセットのような情緒があり、歩くだけで心がときめく場所です。
白壁の蔵屋敷と黒瓦、なまこ壁、柳の緑が川面に揺れて、どの角度から見ても絵になる風景。
川をゆったりと進む遊覧船には、浴衣姿のカップルや家族連れ。
船頭さんの唄う倉敷節が川に響き、時代を超えた物語のようなひとときを演出してくれます。
通り沿いにはレトロなカフェや地元作家のクラフト店が並び、立ち寄るたびに新しい出会いがある。
まるで“歩く美術館”のような町でした。
その中心にある「大原美術館」では、西洋絵画と日本美術、工芸が共存する静謐な空間に身を置きました。
クロード・モネの《睡蓮》の前では、ふと時間が止まったような気さえしました。
絵画の筆遣いに見とれながら、自分の中の「静けさ」に触れることができた気がします。
岡山のもう一つの魅力、それはなんといっても“果物王国”ということ。
桃、ぶどう、マスカット……そのどれもが、陽の光をいっぱいに浴びて育った、まさに自然からの贈り物です。
旅の途中、赤磐市の果樹園に立ち寄る機会に恵まれました。
家族経営の小さな農園で、採れたての「清水白桃」をその場でいただくと、果汁が滴るほどにみずみずしく、口に入れた瞬間、まるで果実そのものが光になって溶けていくような味わい。
農園のご主人が笑いながら、「これはうちの娘より手がかかるけど、味は保証するよ」と語ってくれたのも、忘れられない思い出です。
また、カフェで味わった“ぶどうのフルーツサンド”も絶品でした。
もちもちのパンの中に、大粒のマスカット・オブ・アレキサンドリアがぎっしりと詰まっていて、甘さと爽やかさが口の中で弾けるよう。
見た目も美しく、思わず写真を何枚も撮ってしまいました。
旅の終わりには、倉敷の裏路地にひっそりと佇む古民家カフェで、店主の女性とゆっくりお話をする時間を持てました。
岡山生まれ、岡山育ちの彼女は、「ここはね、目立ちはせんけど、住んでみると良さが沁みてくるんよ」と柔らかく語ります。
「観光地って、どこも“見せる場所”になりがちやけど、倉敷は“寄り添う場所”であってほしいんよね」と続けたその言葉に、私は深くうなずきました。
たしかにこの旅路では、派手な驚きや刺激こそなかったけれど、心の底から「ああ、来てよかった」と思える瞬間ばかりが連なっていたのです。
岡山という土地は、見た目の華やかさや賑わいではなく、じっくりと五感に染み込んでくるような“静かな豊かさ”をもって旅人を迎えてくれます。
清らかな水の流れ、手入れの行き届いた庭園、美しい街並み、優しい人々、そして甘やかな果実の香り。
この地を離れるとき、心の中にはひとつの風景が浮かんでいました。倉敷の川辺で見た柳の葉の揺らめきと、やわらかい陽の光。
それはまるで、旅の余韻そのもののようでした。
晴れの国・岡山。
ここには、“静かなる幸福”という名の宝物が、そっと隠れているのです。
おわりに──風景の記憶、心の奥にそっと灯る旅
中国地方をめぐるこの旅は、まるで一枚の織物を少しずつ織りあげるような時間でした。
糸のように細やかな出会いをひとつずつ結びながら、気づけば心の中には色とりどりの風景が幾重にも重なっていたのです。
鳥取では、風が砂丘に描いた曲線が、まるで詩の一節のように胸に残りました。
裸足で踏みしめた砂の感触、ラクダのゆったりとした足取り、そして砂の上に響いた子どもたちの笑い声――どれもが風景の一部となり、時間の層に静かに刻まれていきました。
島根では、神話が今も息づく大地に、心がほどけるような感覚を覚えました。
出雲大社の大しめ縄の下で手を合わせたとき、旅の疲れも、人ごみの喧騒も、すべてが澄んだ空気に溶けていくような気がしたのです。
石見銀山の静かな坑道に響いた足音は、遥か昔の労働者たちの想いをそっと伝えているようでした。
広島では、平和の尊さに胸が締めつけられました。
原爆ドームの前に立ったあの瞬間、言葉にならない感情が押し寄せ、目頭が熱くなったことを今も覚えています。
けれど、同時に感じたのは「再生」の強さ。
宮島で見た朱塗りの大鳥居が夕日に照らされて輝く光景は、希望の象徴のようでした。
山口では、自然と歴史が静かに語りかけてくる時間に身を委ねました。
瑠璃光寺の五重塔、元乃隅神社の鳥居、角島大橋の向こうに広がる碧い世界。
どれもが、声をあげずとも力強く「ここに生きている」と伝えてくるようで、その静かな存在感に心を奪われました。
そして岡山。
後楽園の緑に抱かれ、倉敷の川辺を歩き、果実の甘みを味わい、人の優しさに触れたこの地は、まるで旅の仕上げを告げる一筆のように、穏やかでいて確かな余韻を残してくれました。
思えばこの旅で出会った風景は、どれも「静かなる豊かさ」にあふれていました。
けして華美ではなく、派手でもない。
けれど、だからこそ日常の延長線上で、ふと心に寄り添ってくれるような温もりがあるのです。
静かな海、揺れる柳、古い街並み、あたたかな声――それらが、心の奥でそっと灯り続けるのです。
旅を終えて今、私は中国地方という場所が「風景の宝箱」であったことに気づきます。
目に見える景色だけでなく、その背後にある物語や歴史、人々の暮らしの重なりが、そっと旅人に語りかけてくる。
そしてその声は、帰路に立ったあとも、ふとした瞬間に蘇り、微笑みをくれるのです。
この旅で出会ったすべての場所、すべての人に、心からの感謝を。
また、いつか――風の匂いが恋しくなったら、あの地を訪ねよう。
中国地方は、きっとそのときも、静かに優しく迎えてくれるでしょう。
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